ストックホルム郊外に住む少年オスカーはいじめられっ子、いじめっこへの反撃を夢想し、木にナイフを突き刺しているところを隣に住むという少女エリに目撃される。同じ頃、近くの森で男が木に吊るされて血を抜かれるという殺人事件が起き、さらに別の事件を目撃したという証言も出てくる…
少年とヴァンパイアの少女の交流を描いたファンタジー・ホラー。ハリウッドで『モールス』としてリメイクされた。

 主人公は少年で、その少年が少女に出会う。12歳という思春期に差し掛かった頃、学校ではいじめられているが、心の底にはそれに対する怒りがふつふつと湧いている。二人の関係は思春期の入り口らしい恋愛未満の惹かれあう関係。少女の方は「私が女の子じゃなかったとしても」という謎めいたセリフを口にする。

観客には少女がヴァンパイアであることはすぐわかり、やがて少年にもわかる。結構な残虐シーンもある映画なわけだが、ストーリーというところから言うとまったくホラー映画ではない。

ヴァンパイアとは何なのか、ゾンビもそうだけれどもともと人間だった者が人間ではなくなり、人間を餌食にしなければ生きていけなくなる。そこにどのような意識が働くのか、ゾンビの場合は人間らしい意識は奪われて「人間を食う」という本能だけで生きているという設定の映画が多いが、時には人間らしさが残っているという場合もある。ヴァンパイアの場合は見た目も人間と変わらず、おそらく意識も殆ど人間と変わらないはずだ。だとすると自分が人間だった頃の記憶もあるだろうし、その自分が人間を餌食にしなければ生きられないという境遇に陥ったときどういう気持ちになるのか、それは想像するに非常に哀しい。

この映画でエリが最初に人を襲う時、襲ったあとでその人を殺してしまう。その時はそんなに疑問を抱かなかったのだが、そのあとで血を吸っている途中に追い払われるというシーンが出てくる。そうすると吸われた側はヴァンパイアになってしまうわけだが、そのヴァンパイアになってしまったおばさんの存在のあり方にこの映画の核心が表れる。

それは、繰り返しになるが「ヴァンパイアとは何か」ということ。実際にヴァンパイアがいるわけじゃないし、そんな核心に何の意味があるんだと思うかもしれないが、まあそれはつまり「自分の存在意義」ということだ。自分が周囲に害を与えるものでしかなくなってしまった時、どのような選択ができるのか。しかも12歳で、おそらくはじめて恋というものを経験した少女に。

つまりこの映画はヴァンパイアという形態を借りて、思春期のアイデンティティの模索を描いた映画だということ。そこにはオトナとは違う迷いがあり、決断があるわけで、残虐なシーンがあるにもかかわらず全体に甘酸っぱさが漂うのはそのためだろう。

別の見方をすれば訳がわからないし中途半端でもあると思うけれど、こういう変化球は私は嫌いじゃない。映画だから、ファンタジーだから許されるこういう哲学的な問いの立て方、最後のシーンに「いやいやそれはちょっと」と思いながらもなんか良かったなと思う、そんな映画。

2008年,スウェーデン,115分
監督: トーマス・アルフレッドソン
原作: ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
脚本: ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
撮影: ホイテ・ヴァン・ホイテマ
音楽: ヨハン・セーデリウクヴィスト
出演: カーレ・ヘーデブラント、ペール・ラグナー、ヘンリック・ダール、リーナ・レアンデション

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