The Education of Shelby Knox

The Education of Shelby Knox
2005年,アメリカ,76分
監督:マリオン・リップシューツ、ローズ・ローセンブラット
撮影:ゲイリー・グリフィン
音楽:リック・ベイツ
(TOKYO MX「松嶋×町山 未公開映画を観るTV」で放送)

テキサス州のキリスト教保守派の高校では“絶対禁欲教育”が行われ、避妊などの性教育が行われないため高校生の妊娠や出産があとをたたず、性病の感染者も多かった。そんな高校のひとつに通うシェルビー・ノックスはその現状に疑問を抱き、性教育を実施するように運動を始めるが…

キリスト教福音派の街で起きる騒動を描いたドキュメンタリー。保守がちがちの街で奮闘するシェルビーの戦いが見もの。

キリスト教福音派は聖書の教えを文字通りに守ろうという宗派で、キリスト教原理主義ともいわれる。アメリカ南部の“バイブルベルト”と言われる地域に集中する彼らの主義主張はアメリカの政治と社会にさまざまな影響をもたらしてきた。

この“絶対禁欲教育”というのもそのひとつ。この考え方は未婚の男女の性交渉を禁じている聖書に基づいて結婚前の禁欲を説く教育。確かにセックスをしなければ妊娠もしないし、性感染症もうつらないのだが、実際にはセックスをするわけだし、その再生に関する知識がないために容易に妊娠し、性感染症も蔓延する。

シェルビー・ノックスは福音派の信者で自身は結婚まで貞操を守る“純潔の誓い”をした敬虔なクリスチャンだ。しかし現実主義的でもあり、性教育をすることは必要だと考えている。そりゃそうだ。福音派の牧師は「性教育をしたらセックスがしたくなる」というが、性教育をしなくたってセックスはしたいんだから性教育はしたほうがいいに決まっている。牧師だって十代のころセックスしたかっただろうに、どうしてそのことを思い起こそうとしないのだろうか。

まあともかくシェルビーは性教育を実施するための運動を開始し、彼女が所属する青年会もそれに呼応する。がちがちの共和党支持者の父親も彼女を指示する。しかし、彼女がゲイの学生たちとつながり始めると青年会も両親も彼女から距離を置く。同性愛の問題は性教育よりもはるかに受け容れ難い問題らしい。そして市や州はさらに強く彼女に反発する。

「普通の」感覚からいうと彼女の言うことは至極最もで、むしろ彼女でも保守的過ぎるという気がするのだが、そういう「常識」はここでは通用しない。これを見るとアメリカという国はあまりに宗教的であまりに偏狭だ。アメリカというと“自由”といわれるが、はっきり言ってこの作品に描かれるアメリカに自由などない。力あるものの自由のために弱者の自由は徹底的に奪われる。それがアメリカという国だ。そしてそれをキリスト教という偏狭な宗教の倫理に摩り替えて弱者を騙すのだ。

牧師自身キリスト教は偏狭な宗教だと言っている。シェルビーはそうではないというが、キリスト教福音派はかなり偏狭な宗教だ。キリスト教自体は成立から2000年を経る間に変遷し、中には寛容な宗派も生まれているが、原理主義である福音派は偏狭だ。

その偏狭さは想像力の欠如につながり、互いの不理解がさまざまな軋轢と矛盾の原因となる。この映画はそんな軋轢を描いた作品のひとつだが、こんな映画がアメリカにはたくさんあるんだということに気づく。まあ福音派の人たちはこんな映画が作られたところで変わることはないだろうから、やはりこういう映画は作られ続けるのだろう。

本当に理解し難いが、それを理解しようとしなければ彼らと同じになってしまうから、頑張って理解しよう。

ウォルマート/世界一の巨大スーパーの闇

嘘つきで守銭奴で差別主義者、それがウォルマートだよ!

Wal-Mart: The High Cost of Low Price
2005年,アメリカ,98分
監督:ロバート・グリーンウォルド
撮影:クリスティ・テュリー
音楽:ジョン・フリッゼル

 世界最大の小売企業ウォルマート、年間売り上げ40兆円、従業員210万人という大企業が成長を続け、巨額の利益を上げることが可能な理由とは?
 映画監督でプロデューサのロバート・グリーンウォルドが巨大企業の闇にせまった社会派ドキュメンタリー。アメリカでは劇場公開されて大きな話題を呼び、ウォルマートの経営方針にも影響を与えたといわれる。

 ウォルマートといえば日本でも西友を子会社化して間接的に進出しているが、アメリカでは他の追随を許さぬ巨大スーパーマケットチェーン。その売上が年に40兆円に上ることが作品の冒頭で明かされる。40兆円という金額はちょっと想像がつかないが、日本の国家予算(一般会計)の約半分と考えるとそのすごさが少しわかる。

 そしてこの映画はオハイオ州の田舎町でウォルマートの進出によって店をたたまざるを得なくなった家族のエピソードから始めることで、この巨大企業の負の側面を描こうとしていることがわかりやすく示される。ただ、大規模なスーパーマーケットの進出によって個人商店がつぶれるというのは日本でもよく聞く話、それだけではお話にはならない。

 この作品が描くウォルマートのひどさは、この巨大企業が競争相手を叩き潰すだけではなく、従業員、顧客、工場労働者を搾取して利益を生み出しているという点だ。特に前半に描かれる従業員に対する搾取は凄まじい。アメリカの医療保険制度の不備は『シッコ』などにも描かれているが、ウォルマートの医療保険はそんなアメリカの中でもひどく、従業員のほとんどが保険料を払えない。それどころかウォルマートの従業員の中はフルタイムで働いているにもかかわらず生活保護を受けている人までいるという。こんな会社は聞いたことがない。

 その後も出てくるのはウォルマートに対する批判、批判。ウォルマートの経営者は嘘つきで、守銭奴で、差別主義者で、ろくでなしである。それは間違いないようだ。

 もちろん、それは一方的な非難でもある。この作品はウォルマートを徹底的に悪者にし、CEOの映像を道化のように使い続ける。その証拠はない。しかし終盤で登場するウォルマートに対抗する人たちが口々に語るようにウォルマートという巨大な権力に対して市民はあまりに無力なのだ。その力の差を覆すには時には嘘も交えた詭弁を弄するしかないのだ。

 圧倒的に不利な戦いを正攻法のみで戦うというのは自殺行為だ。敵が嘘を武器として使うならこっちも使う、そんな汚い手段も許せるほどにこの映画に描かれたウォルマートはひどい。

 この作品が公開され反響を呼んだ結果、ウォルマートの体質も少しは改善されたらしい。駐車場の警備は強化され、ハリケーン“カトリーヌ”の被害者に対する支援を行ったという(MXテレビ放送時のコメント)。この作品当時世界長者番付の6位から10位に名を連ねていた創業者の遺族は、2007年版では23位から26位に位置している。まあそれでもその合計は800億ドル異常だが3年間で20%ほど減少している。

 創業者一家の金持ちぶりはともかくとすれば、この作品は1本の映画が巨大な権力を動かす力になりうることをある程度証明したと言うことができるだろう。この作品以外でも『スーパーサイズ・ミー』がマクドナルドを動かすなどの例もある。

 とにもかくにもこういう作品が作られなければ、普通の人々にその闇が知られることもない。日本のイーオンやユニクロは本当に大丈夫なのか、大きな企業の活動というのは注意深く見なければならないのだということを改めて認識させてくれる映画だ。

ロバート・イーズ

Southern Comfort
2000年,アメリカ,90分
監督:ケイト・デイヴィス
撮影:ケイト・デイヴィス
音楽:ジョエル・ハリソン
出演:ロバート・イーズ、ローラ・コーラ

 典型的な南部の郊外のトレーラー・ハウスで暮らすロバート・イーズ。どこから見ても普通のおじさんという彼だが、実は女性として生まれ二人の子供まで生んだ後、性転換手術を受け、男性となった。そして今は、子宮と卵巣が末期のがんに侵され、余命いくばくもない状態だった。しかし、彼は秋に開かれるトランスセクシャルの大会(サザン・コンフォート)にもう一度参加することを夢見て、パートナーのローラと懸命に生きるのだった。
 アメリカでも好機の目にさらされるTS(トランスセクシャル)やTG(トランスジェンダー)の問題と真っ向から向かい合ったドキュメンタリー。非常にわかりやすく問題の所在を描き出している。

 TSやTGという人は実際はきっとたくさんいて、ただそれが余りメディアに登場しない。日本では金八先生で「性同一性障害」が取り上げられて話題になったけれど、本当はこれを病気として扱うことにも問題がある。しかし、この映画でも言われているように、性転換手術には膨大な費用がかかるので、保険の問題から病気といわざるを得ないということは言える。性別の自己決定権というかなり難しい問題を理解するひとつの方法としてこの映画は多少の役には立つ。
 実際の問題はそのような理知的なレベルではなくて、いわゆる偏見のレベルにある。「気持ち悪い」とか「親にもらった体なのに」という周りの偏見や勝手な思い込み、これが彼らのみに重くのしかかる。マックスの妹のように身近にそのような人がいればその痛みがわかるのだろうけれど、いないとなかなかわからない。だからこの映画のように、メディアを通じてその痛みを感じさせてくれるようなものを見る。それでも本当の痛みはわからないけれど、何もわからず彼らを痛めつけてしまうよりはいいだろう。
 この映画は、ひとつの映画としては死期の迫った一人の男を追ったドキュメンタリーにすぎず、彼がたまたまトランスジェンダーであったというだけに見える。そのことが強調されてはいるが、それによって何か事件が起こったりするわけではない。穏やかに、普通の人と同じく、一つの生きがいを持って(TSの大会に参加すること)、生きる男の物語。
 だから、特にスペクタクルで面白いというものではないけれど、逆にこのように普通であることが重要なのだ。「普通の人と同じく」と書いたけれど、彼らだって普通の人と変わらないということをそれを意識することなく感じ取れること。つまり、「彼らも普通の人と変わらないんだ」と思うことではなく、「何だ、普通の話じゃん」と思えてこそ、彼らの気持ちに近づいているのだと思う。
 そう考えると、この映画は見ている人の意識を喚起させるのには役立つけれど、彼らは普通の人とは違うととらえているところがあるという点では被写体との間すこし距離があるのではないかと思う。

鳥のように – ラ・ドゥヴィニエール

La Deviniere
2000年,ベルギー,90分
監督:ブノワ・デルヴォー
撮影:ブノワ・デルヴォー
音楽:ブノワ・デ・クラーク

 いくつもの精神病院をたらいまわしにされ、どこでも受け入れてもらえなかった十代の少年少女たちのために作られた開放型の精神療養施設「ラ・ドゥヴィニエール」。それから20年後の療養所の様子を比較的軽度なジャン=クロードを中心に描いていく。
 監督はカメラマンとして『ロゼッタ』などに参加したブノワ・デルヴォー。初の長編作品となる。

 これは精神病院ではなくて療養所だけれど、精神病院を描いたようなドキュメンタリーは結構ある。フィクションも結構ある。それらと比べてこの映画に何か光るものがあるかといえば、あまりないといわざるをえない。全く解釈をせず、ただただ映し続けるだけという姿勢はいいのだけれど、そこから何かが浮かび上がってくるのかというと、それはなかなか難しい。映画の後半になってジャン=クロードが主人公のようになり始めると、映画は一種のメッセージのようなものを持ち始めるのだけれど、前半部分とのつながりは希薄である。最初からジャン=クロードが主人公然としていれば、彼を中心に映画を見ることができるのだけれど、前半にはただのひとりでしかなかった彼が急に主人公に成り上がってしまった印象があって、それが残念でならない。
 こういう映画はなんだかドキュメンタリーということに胡坐をかいたというか、ドキュメンタリーであることに価値を置きすぎている映画という気がする。ドキュメンタリーであっても映画なのだから、観客を楽しませたり、観客に伝わりやすくしたりする努力が必要なのに、この映画を見ていると、「わたしたちは現実を提示しているのだ」というある種の傲慢さが映画作りの根底にあるような気がしてしまう。
 この映画は時間について言及しないけれど、おそらく時系列どおりに構成されており、映画が主人公を発見していく過程と撮影者たちが主人公を発見していく過程は一致する。しかし、その過程にあまり必然性はなく、被写体との距離やたまたまおきたイベントによって左右される。だから映画の物語にまとまりがなく、観客の注意も散漫になってしまう。

 まあ、映画を見て、現実を見て、いろいろ考えさせようというのが意図であり、もちろん考えさせられることはあるわけですが、それだけでは映画としては並みの域を出ることはできないということです。

マニュファクチャリング・コンセント – ノーム・チョムスキーとメディア

Manufacturing Consent: Noam Chomskyand the Media
1992年,カナダ,167分
監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
撮影:マーク・アカバー、ノルベール・ブング、キップ・ダリン、サヴァ・カロジェラ、アントニ・ロトスキー、フランシス・ミケ、バリー・パール、ケン・リーヴス、ビル・スナイダー、カーク・トゥーガス、ピーター・ウィントニック
音楽:カール・シュルツ
出演:ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン

 世界で一番重要といわれる思想家ノーム・チョムスキー。言語学者として画期的な学説を発表する一方で、ベトナム戦争の反戦運動をはじめとしてさまざまな政治活動にも参加する。多くのテレビ・ラジオに出演し、講演を行い、自分の考えを率直に述べていく。そんな彼がメディアと国家の陰謀を指摘した著書『合意の捏造』。これをネタにしてチョムスキーを追ったドキュメンタリー。
 とにかく膨大な映像を材料として手に入れ、それをうまく構成したという印象が強い。チョムスキーという人物の人物像と思想がわかりやすい形で浮かび上がり、小難しくなく見ることができる秀逸な作品。

 この映画はチョムスキーという人を徹底的に追って、彼の思想をわかりやすく描こうという意図で作られていると思うけれど、それがそのまま監督(たち)が完全にチョムスキーに同意しているというわけではないと思う。もちろんチョムスキーに賛同し、その意見を人々に広めたいという意図はあるだろう。しかし、そもそも人の意見が完全に一致するはずなどなく、彼らも結局のところチョムスキーの思想を「メディア」として自分の都合のいいように媒介しているに過ぎない。
 と書くと、かなりの誤解を生みそうですが、この映画はそれくらいの疑いをメディアに対して持たせる。もちろんこの映画はそのあたりも織り込み済みで、大手企業に独占されるメディアの状況や、独自の意見を表明し続ける独立系のメディアを描いて、自らの正当化を図る。この映画はそもそもメディアについてメディアにおいて語るチョムスキーを描いたメディアなので、問題は複雑だ。
 彼らの意図は、政府や大手メディアのようにチョムスキーの意見を曲解することではなく、チョムスキーの意見を広くわかってもらうために都合のいい部分だけをピックアップする。そのような意味で自分が伝えようとする部分意外は排除するわけだから、完全にチョムスキーに同意しているわけではない。
 この辺りがなかなか難しいところで、時間の限られたテレビショーが話の長いチョムスキーを拒否するのとある部分では似通っている。しかし、ぜんぜん違うというのも確かだ。
 つまり、この映画を見るわれわれはこれはチョムスキーの解説映画であって、チョムスキー自身ではないのだと了解することは必要だ。そのようなものとしてわたしはこの映画もこの映画に登場するチョムスキーも全面的に支持する。この映画はユーモアにあふれているし、人々の目を開かせるような事実を(チョムスキーを介して)明らかにしている点で衝撃的だし、理論的にも整然としているし、チョムスキーの人柄も垣間見える。チョムスキーについてどんな入門書よりもわかりやすく解説していると思う(多分)。

 チョムスキーの思想自体は映画を見てもらえばわかると思うので、あまり深くは触れないが、彼の思想もなかなか複雑だ。ともかくメディアと大衆の関係性について語り、巨大企業と一部のエリートに操作されている大衆に警句を発する。しかし、他方で大衆を完全に信頼しているわけではない。チョムスキーを見ていると、言い方は悪いが大手メディアとの間で洗脳合戦をしているという気もする。ちょっと考えればチョムスキーのほうが正しいということは頭では理解できるのだが、彼もいうように現在の状況から逃れることはなかなか難しい。根本的な社会制度の改革、そんなことが可能なんだろうか。

北京

1938年,日本,74分
監督:亀井文夫
撮影:川口政一
音楽:江文也
出演:松井翠声(解説)

 1938年、東宝文化映画部は当時中国を侵攻していた日本軍を追ったルポルタージュを三部作として製作した。この映画はその3作目で、1作目の『上海』に続いて亀井文夫が構成・編集を担当している(第2作目の『南京』の監督は秋元憲)。
 映画の作りは基本的には『上海』と同じで、兵隊や戦場を撮るよりも、日本軍が通り過ぎた街の風景やそこに住む人々を描く。むしろ『上海』よりもさらに戦争そのものから離れてしまったような印象すら受ける。

 現存するフィルムでは、映画の最初の1巻が失われてしまったというテロップが最初に流れる。映画は紫禁城の建物や、そこに住んでいた西太后らについての解説から始まる。想像するに、1巻目には戦況の解説や北京の街についての概説が収められていたのだろう。それに続いて北京最大の建造物である紫禁城について描く。そのような構成であったと想像する。
 それは、この映画が『上海』と比べてもさらに戦争そのものについての言及が少なく、明確なものとしては終盤に登場する爆撃隊の映像くらい。それを考えると、最初にそこを抑えていたと考えざるを得ないわけだ。

 そのようなことを踏まえた上でこの映画について考えてみると、そもそも戦争というものが頭に浮かんでこない。『上海』では既存の戦争ルポルタージュの文法を逆手にとって、それとは違うものを作っているという感じがしたけれど、この映画はそもそも戦争ルポルタージュではないという気がしてくる。単純なルポルタージュで、その場所がたまたま戦場であっただけというような、そんな印象。
 特に映画の後半は、北京に住む普通の中国人たちの生活を克明に描く。わたしが一番好きなのは、糸屋とか紙屋とか床屋とかいろいろな商売の人たちが登場し紹介されるシーン、ほとんどの人は行商というか、売り物や商売道具を持って歩き回り、おそらくそれぞれの職業に特有だと思われる鳴り物で客を呼ぶ。これをとにかくいろいろな商売について紹介していく。ただそれだけのシーンなんだけれど、その商売の多様さや細分化の度合いを見ていると、それだけでそこで暮らす人々の暮らしぶりが見てくる気がする。

 まあ、それは冒頭の破壊された町の風景とは裏腹に、戦争があっても人々の暮らしは変わらず続くというメッセージであると受け取ることもできるけれど、わたしはその風景を、素朴に単純に眺め、味わいたい。この映画には、そのように感じさせるゆるりとした空気が流れている。
 そんな空気の中では、唐突に言及される爆撃隊はこの映画が戦争ルポルタージュであることを思い出させるためだけにあるような気がしてきてしまう。

花子

2001年,日本,60分
監督:佐藤真
撮影:大津幸四郎
音楽:忌野清志郎
出演:今村花子、今村知左、今村泰信、今村桃子

 今村花子は重度の知的障害を持ち、両親と一緒に住んでいるが、その両親と会話をすることもできない。そんな彼女が意欲を発揮するのは芸術的な側面。キャンパスに絵の具を塗りたくり、ナイフで傷をつける。それよりもユニークなのは、食べ物を畳やお盆に並べる「食べ物アート」。それを発見した母親の知左が面白いと思って写真に撮り、それが数年にわたって続いている。
 そんな家族とともに生きる花子の姿を描いたドキュメンタリー。

 映画は忌野清志郎の歌声で始まる。少し割れたようなこの歌が妙に映画にマッチしている。歩き回る花子の姿と清志郎の歌声は映画への期待感を高める。
 映画自体は最初からアート、視覚アートの世界を描く。原色の油絵の具をキャンパスに塗りたくり、そこにペインティングナイフで傷をつけていく。それは何気ない、でたらめのように見える作業だが、そこから生まれてくる色彩のバランスは決してでたらめではない。意識的に何かをつくろうとはしていなくても、できてくるものに対する美醜の感覚を花子は持ち合わせているのだということをその絵を書くシーンは物語る。
 食べ物を並べて作る「食べ物アート」はほとんどの場合、父親が言うように「汚いことをしている」ようにしか見えない。にもかかわらずそれをアートとして捉え、写真に残すことにし、花子に好きなようにやらせることにした母親の知左はすごい。この映画はその知左という母親にほとんど集約していく。家族のそれぞれが対花子の関係を持って入るんだけれど、そこには必ず母親の知左が存在する。そんな微妙な家族の関係をこの映画はさりげなく描く。
 その家族の関係というのが非常に重要な問題で、それを考えさせることを主眼としているのだろう。しかし、それを眉間に皺を寄せて考えるのではなく、なんとなく考える。重度の障害者を抱えながらも、ゆったりと生きる両親を見ながらそんなことを感じる。

 話は音に戻って、音楽から始まるこの映画は花子の立てる言葉にならない言葉が大きく観客に作用する。声だけでなく、花子が自分の頭をたたいたり、頭を床にぶつけたりするその音も重要だ。おそらく音は現場での同時録音の時点の大きさよりも増長され、より観客に届くように編集しなおされている。少し画面と音がずれているところがあったりして、それはちょっと気になるところだが、それだけ、その音を伝えることがこの映画にとって重要だったということだ。言葉を話せない花子にとって、意思を伝えるために使えるのは、その音と強引に体で主張するという手段だけだ。だから、花子の家族たちも常に音に対して敏感になり、物音にすばやく反応する。そのような音に対する意識もこの映画は伝えようとしている。
 一つの事柄では表せない複数の要素が重なり合い、難しい問題を提起しているけれど、しかしそれを難解なものとして提示するのではなく、日常的なものとして提示する。この映画はそのような提示の仕方に成功している。

BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界

Ballet
1995年,アメリカ,170分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイヴィー

 映画はABT(アメリカン・バレエ・シアター)の事務所から始まる。電話に向かって大声で交渉を行っている。つづいて練習風景。車椅子のお婆さんが振り付けをしている。車椅子に座っていても、凛とした姿でもともとバレリーナだったことが見て取れる。その後も練習風景を中心として講演に向けた準備を着々と進めていく光景を追っていく。
 世界的に有名なABTの内部に始めてカメラが入った。練習風景から、舞台裏、公演に至るまで克明に記録したのがこの映画。ワイズマンらしい鋭さよりも映像の美しさが際立つ作品。

 ワイズマンについて語るとき、どうしてもその映画が提起する問題について語ってしまいがちである。それはもちろんワイズマンがそうさせているからであって、ワイズマンの映画とはおそらく本質的に観客を問題に意識的にさせるための道具であるのだろう。
 しかし、ワイズマンがそのように映画をテキストとして読むことを要請してるとは言っても、単なるテキストであるわけではない。それがテキストとして読まれることを可能にしているのは、映像と音声であり、その(視覚的と聴覚的な)造形の見事さが映画の根幹を支えていることはいうまでもない。
 この映画を見てまず意識に上るのは、その映像の美しさだ。もちろんそれはABTのダンサーたちの体や動きの美しさに負うところが大きいが、ワイズマンはそれを見事にフィルムに焼き付ける。この映画を見ると、ワイズマンの映画もまたテキストである以前に映像であるのだということに気付かされる。

 この映画はそんなワイズマンの美的/芸術的要素が前面に出ている映画だ。ABTという一つの集合体を被写体とするという意味ではこれまでのスタンスと変わりはない。しかし、その被写体は今までになくいわゆる政治/社会的な文脈よりも文化的な文脈におかれるのにふさわしい被写体である。
 テーマというかテキストを抽出するならば、人々あるいは社会と芸術との関係性ということがいえ、それは続く『コメディ・フランセーズ』にもつながっていく問題意識である。
 特権的空間を日常的空間として描く点も『コメディ・フランセーズ』と共通する。ワイズマンはこのふたつの映画によって特権化されがちな芸術(高等芸術)を日常的なものに意味づけなおすということをやっているのではないか。ギリシャの青空の下で行われるリハーサルの風景、それはえもいわれぬ美しさを持っているけれど、それは手の届かないところにあるのではなく、それを眺める少女の身近にあるものである。そのようなメッセージが画面から伝わってくる。そもそもバレエを映像に捉えること自体、日常的空間への転移の一種であるだろう。
 そのようにして特権を剥ぐことによって、ワイズマンは芸術を身近なものに感じさせることに成功している。そしてそれは価値を貶めるのではなく、むしろ高める。ワイズマンのフィルムに刻まれた練習風景を見ていると、本番が見たくなる。しかも本物の舞台を見たくなる。
 ワイズマンの目的は人々を舞台に連れて行くことではないだろうけれど、少なくとも芸術と日常を密接に結びつけること。これがワイズマンが意図したことの一つであることは間違いない。

DV-ドメスティック・バイオレンス

Domestic Violence
2001年,アメリカ,195分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 映画はドメスティック・バイオレンスの現場に駆けつけた警察官らの映像から始まる。喉から血を流しながらパニックになり、叫ぶ女性。そんな映像をプロローグとして、映画はDV被害者保護施設である「スプリング」の内部に入ってくる。「スプリング」にはDV被害にあった人々からの電話を受け、彼らを受け入れる。
 これまでどおり、一つの施設を取り上げ、そこの内部に深く入っていく。DVがアメリカで非常に大きな問題となっていることは知られているので、問題意識を持ちやすく、映画に入っていきやすい。

1回目
 ドメスティック・バイオレンスという話題自体は耳新しいものではない。しかしその実態となると、あまり耳には入ってこない。日本で話題になるのは、親による子供の虐待死が多い。しかし、アメリカでは夫や恋人による女性への肉体的虐待が多い。という程度の知識。だからこの映画はまず、興味はあるけれど、内容はよくわからないものへの知的好奇心を刺激する。DVとはいったいどのようなものなのか。この映画がそれを明らかにすることは確かだ。
 そういった面で一番印象に残ったのは、一人の女性が、カウンセラーの質問項目に答えていく場面。彼女は「突かれたか?」とか「殴られたか?」とか「他人の前で侮辱されたか?」といった質問のすべてに当てはまっていく。その質問に答えることによって彼女は、あんなこともDVにあたるのだと気づき、自分がいかに虐待にさらされてきたのかということを知る。この映画の中で「洗脳」ということが何度か出てくるけれど、その「洗脳」に自分がさらされていたのだということに気づく瞬間の表情をワイズマンは見事にとらえる。
 この「スプリング」では(それはおそらくアメリカのDV対策においてはということだろうが)この「洗脳」ということを非常に重く見ている。主に男性が女性を自分の支配下に置くために洗脳する。虐待に当たることを当たり前のことと受け取らせてしまう。だから50年もの間、虐待を受けながらそれに耐えることになる。そしてそれが虐待だとはわからなかったということになる。
 だから、ここではグループカウンセリングにより、それに気づかせ、そうならないようにするためにはどうするべきかということを話し合わせる。いろいろな人の体験を聞くことによって今後の対策を考えることができる。

 というのが、この映画で描かれたDV対策だ。もちろんそれは必要だ。「自分の心は自分のものだ」ということは当たり前のことであり、重要なことだ。特に「スプリング」にきている彼女たちは心を他人に譲り渡してしまいやすに人たちで、だからそれを強く言い聞かせることは必要だ。しかし、好きな人がいて、その人に心を明け渡したいという欲求が生まれることも確かだ。好きなのに、心の一端も譲り渡すことができないというのはあまりに寂しい。
 問題はおそらく、その相互依存が力の関係に変わってしまうということだろう。力関係が均等でなくなると、それは相互依存でありながら、力の弱いものにとっては一方的な依存であるように見えてしまう。そのようにならないための努力というのがこの映画に描かれていることだ。
 しかし、その先にある問題は、それが結果的に支配の奪い合いになってはしまわないかということだ。望ましいのは、奪い合う関係ではなく、与え合う関係であるはずなのに、それを教えることすら叶わないこの状況はあまりに悲しいと同時に、考えなくてはならない状況である。
 この映画は非常に引き込まれるが、決して後味はよくない。ワイズマンが自分の価値判断を示さないのはいつものことだが、この映画の最後に、ドメスティック・バイオレンスに及ばない現場が、虐待をしそうな本人が警察に通報した場面を挿入したことは、ワイズマン自身この問題があまりに複雑で、解決しがたいことであると認識していることを示しているように見えた。

2回目
 まず、われわれは警察が駆けつけたDVの現場を見せられる。驚くほどの血を流し、うろたえる女性、DVというと殴ったとか蹴ったという程度を思い浮かべがちだが、実際には刃物や銃を使ったものもある(これが非常に多いことは後々わかってくる)ということを認識させられ、その深刻さに気づかされてから、われわれはその被害者の駆け込み寺とでもいうべき施設“スプリング”の中に誘われる。
 そのスプリングにやってくる女性たちは予想通り、傷つき、打ちひしがれている。重要なのはそれが単なる暴力なのではなく、長年にわかる抑圧であるということだ。問題なのは物理的な傷が治癒することではなく、ずたずたに切り裂かれた精神を癒すことこそが必要なのだということがわかる。
 彼女たちは精神を押さえつけられ、閉じ込められ、逃げ出すことが出来なかった。物理的には可能であっても「逃げたら殺される」と思い込まされ、閉じ込められてきたのだ。そんな彼女たちが着の身着のまま逃げ込んだスプリングでの最初の面談が、まず映されるが、そのカウンセリングから徐々にその抑圧が解けていく過程を見ることが出来る。

 そして、彼女たちの問題は「知らない」ということだ。暴力を伴わない関係を「知らない」、逃げる方法を「知らない」。そこで、ここに登場するDV被害者の多くが母親もDVの被害にあっていたと語ることが重要になる。そして、DVの被害を受けた人の多くが大人になって加害者に回るというのも問題になる。
 それは、DVが存在する環境で育つことで、それが存在しない環境を知ることがないということが原因なのではないか。暴力の介在しない人間関係があることを知らない。DVはそこからひたすら再生産されるのである。そのようなことが明らかになるのは、被害者たちが教室のようなところで体験を語る場面である。ここではしゃべる人は限られているのだが、しゃべり始めると関を切ったように喋り捲るのだ。それはまさに抑圧が取り払われたことを象徴的に示している。抑圧され、閉じ込められていたものを一気に解き放つ感じ、それがその爆発的なしゃべり方に現れている。

 「知らない」のはスプリングにやってくる被害者ばかりではない。映画の中盤で老婦人の集団がスプリングを見学にやってくるのだが、彼女たちはアメリカの女性の約3分の1が虐待を受けた経験があるということを聞いて驚く。そしてその割合は昔と比べて増えているわけではないという説明を聞く。それはつまり、彼女たちの3分の1もかつて虐待を受けていたか、今も受けているということを意味するのだ。彼女たちは自分たちには関係ないかわいそうな人たちの世界としてスプリングを見ていたわけだが、実は彼女たちも無関係ではないということを知る。
 そして私たちも自分も無関係ではないということを知る。日本でどれくらいの割合の人が虐待を受けた経験がるのかはわからないが、決して少なくはないだろうと思う。実は自分は虐待を受けて知るのかもしれない、あるいは虐待しているのかもしれない。そのような疑問がこの映画を見ている中で必ず沸く。

 そしてそのことに気づかないというありそうにないことが起こるのは、DVというものが「洗脳」のメカニズムを備えているからだということが映画の後半に説明される。被害者は加害者に「洗脳」され、虐待されること/虐待することを普通のことだと思うようになってしまうということだ。「そんなバカな」と思うけれど、スプリングにやってくる彼女たちは見事にその「洗脳」の餌食になってしまっているのだ。
 そして、この「洗脳」は被害者だけでなく加害者をも犯している。加害者もまた虐待を当たり前のものとして「洗脳」されているのだ。彼らには虐待をしているという意識がない。あるいは意識があったとしても自分で止めることが出来ない。
 そのように加害者もまた「知らない」ことが映画の最後に挿入されるエピソードで明らかになる。この最後のエピソードは警察が呼ばれていくと、そこでは男性と女性が口論していて、それは虐待をした経験のある男性が、「このままだと大変なことになる」と思って警察を呼んだのだという。つまり彼は自分で止める自身がないから警察を呼んだということなのだ。彼は自分が虐待に及ぶ可能性を知ってはいるが、それを止めることが出来ないのだ。

 このように、この映画で示されているのは、ことごとく「知らない」ということである。被害者も加害者もそしてわれわれもDVのことを本当には「知らない」のである。そしてさらに、この映画を見たからと言って、それでDVのことを知ったことになるわけではないということもわかる。われわれはただ「知らない」ということを知っただけなのだ。あとは、自分が何を「知らない」のかを自分自身で考えることだ。もしかしたらあなたもDVの被害者/加害者かもしれないのだから。

メイン州ベルファスト

Belfast, Maine
1999年,アメリカ,247分
監督:フレデリック・ワイズマン
撮影:ジョン・デイビー

 朝焼けの中、ロブスターの漁をする舟。かごを海底から引き上げ、そこからロブスターを取り出す。そんな漁業が行われているベルファスト。続いてクリーニング屋が映り、さらに町のさまざまな場所が映し出される。
 ワイズマンの30本目のドキュメンタリーに当たるこの作品はひとつの施設や組織ではなく、町全体を被写体とした。そのことによって、さまざまな要素がカメラに切り取られることになる。それはこれまでにワイズマンが映してきたさまざまなものを包括するものであるという一面も持つ。

 これはワイズマン流のひとつのアメリカ史なのだと思う。ニューイングランドにあるこの町は南北戦争以前からあり、教会がいくつもあり、白人しかおらず、老人が多い。こんな小さな町であるにもかかわらず、あらゆるものがある。何もないという言い方もできるが、逆に何でもあるという言い方もできる。商業、漁業、農業、工業といった産業もあるし、商店や映画館、裁判所、図書館、病院など、アメリカの社会に必要なあらゆるものがこの小さな町(小さな町であることは画面から十分に伝わってくるが、資料によれば人口6000人の町らしい)にある。 具体的な歴史も出てくる。南北戦争を研究する男、アーサー・ミラーやハーマン・メルヴィルについて教える授業。それはアメリカ史そのものである。
 これを見てワイズマンがどのような歴史観をもっているかということを推測するのはなかなか難しいが、少なくともワイズマンはあくまでもアメリカにこだわっている。そして、おそらくアメリカを活気に満ち溢れた国というよりは、年老いた国と見ている。それは他の国との比較という意味ではなくて、歴史を振り返ってみてアメリカも年老いたということを言っているのだと思う。老人人口は増え、医療に膨大な金が掛かる。南北戦争のころのような新しいものを生み出す活力はすでになく、工場のように同じものを作り続けているだけ。この映画を見ているとそのようなイメージが浮かんでくる。
 だからといって悲観しているわけではなく、悲観とか楽観という視点を超えて、あるいはそのような視点には踏み込まないで、そのようなアメリカを問題化する。歴史を取り出して、その問題を明確化する。ワイズマンがやっているのはそのようなことだ。

 とにかくこの映画にはこの町には老人ばかりがいる。一人のおばあさんがフラワーアレンジメントの教室と、南北戦争の講義とおそらく両方に出ていたので、必ずしも老人が大量に要るというわけではないだろうが、この町が高齢化していることは確かだ。そんな中で問題となってくるのは、医療や社会福祉という問題だ。それはワイズマンがこれまでに扱ってきた問題で、この映画はワイズマン映画の見本市のような様相を呈する。
 それらの問題は、つまりいまだアメリカにおいて問題であり続け、ワイズマンにとっても問題であり続けるようなことだ。
 わたしが面白いと思ったのは裁判所の場面。たくさんの被告人が呼ばれ、一人ずつ機械的に罪状認否をして言く。有罪だと主張すればその場で罰金刑が科され、無罪を主張すると、裁判になる。そのオートマティックな裁判所の風景は、缶詰工場の風景を思い出させる。これはもちろんアメリカの裁判の数の絶対的な多さからきていることだが、ここにもアメリカの病の一端があるような気がする。
 それも含めて、この町はアメリカが抱えているあらゆる問題を同様に抱えている。小さな田舎町。その風景はおそらく多くのアメリカ人にとっての原風景に通じるものがあるのだろう。そして、歴史という時間軸とさまざまな事象という事象平面によって提示されるこの町の全体像をアメリカの縮図とする。ワイズマンのカメラはそんな仕掛けを用意してこの町を映し出す。