オリーブの林をぬけて

Zir-e Derakhatan-e Zeyton
1994年,イラン,103分
監督:アッバス・キアロスタミ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:ホセイン・ジャファリアン、ファルハッド・サバ
出演:ホセイン・レザイ、モハマッド・アリ・シャハーズ、タヘレ・ラダニアン

 この映画は「映画監督役をする」という俳優のセリフから始まる。そして彼以外の出演者はみな素人であると宣言され、出演する女性を探すシーンで映画がスタートする。その後も映画の撮影そのものとそれにまつわる出演者たちのエピソードで映画は展開されていく。
 どの出演者も実名で登場することもあって、どこまでがフィクショナルな部分なのかはまったく判別がつかない。しかし、キアロスタミ本人は登場しないことから、全体としてはひとつのフィクションとして作られているということなのだろう。

 これはとても不思議な映画だ。おそらく多くの部分は素人の出演者たちの生な部分なのだろう。演じるように指示されたものかもしれないが、それは事実に基づく物語であるように思える。とはいえ、ここではどこまでが事実でどこからがフィクションであるのかの線引きをすることはまったく重要ではない。重要なのはこれがフィクションであるにしろ、イランの現実を反映しているということだ。「友だちのうちはどこ?」の撮影で訪れた土地が地震に襲われ、多くの死者が出たことから紡がれることとなった2つの物語。それは「そして人生はつづく」とこの「オリーブの林をぬけて」だが、その二つの物語に登場する人々はまったくの現地の人たちであり、たとえばホセインは映画の中で述べているように25人の親戚を地震で失ったのだろう。
 そのように非常に事実であるにもかかわらず、全体はフィクションであり、しかも映画の撮影を撮った映画であるという複雑さが全体を不思議な雰囲気にしているといえる。そして素人たちが映画作りに加わることから生じるさまざまな事態も不思議な雰囲気を醸し出す一因だ。これは推測だが、この素人が加わることによって生じる事態というのはキアロスタミ自身が前2作を撮るときに感じたものをそのまま映画に表現したものなのだろう。映画の中での監督が、どうしても「ホセインさん」といわないタヘレに怒りを爆発させそうになるが、相手役のホセインに「最近は夫にさんなんてつけない」とたしなめられて、自分の主張を引っ込める。これなどはキアロスタミが実際に経験したことなのだろうと思える。そのような事態はプロの役者を使ったら絶対に起こらないことだろう。
 このようなことが起きることでキアロスタミは映画のすべてをコントロールすることはできないと気づいたかもしれない。そしてそれを表現するべくこの映画を撮ったのかもしれないと思う。そう思うのはこの作品以後もキアロスタミが素人の役者たちを使い、それによって起こる予想外の事態を積極的に映画に取り入れているように見えるからだ。このような傾向はキアロスタミにとどまらず、イランの監督たち一般に言える傾向である。この監督に統御しきれないところから生まれた要素というのが私にとってのイラン映画の魅力のひとつである。
 しかし、キアロスタミはしっかりと自分の仕事もし、自己を強烈に主張する。それは、ラストシーンである。それまでまったく使わなかった音楽を使い、そしてあの圧倒的なロングショット。誰もがただの白い点になってしまった人物の一挙手一投足を目を細めてみてしまうだろう。それはもちろんこのラストシーンに至るまでの二人の物語にわれわれが入り込んでしまったからこそなのだろう。そんな非常に魅力的なラストシーンはキアロスタミの映画の中でも最上の5分間だと思う。そして映画史上においても屈指のものだと思う。

トラベラー

Mossafer
1974年,イラン,72分
監督:アッバス・キアロスタミ
原案:ハッサン・ラフィエイ
脚本:アッバス・キアロスタミ
撮影:フィルズ・マレクザデエ
音楽:カンビズ・ロシャンラヴァン
出演:マスード・ザンベグレー、ハッサン・ダラビ

 イラン南部の町に住むガッセムはろくに学校にも行かず、学校は落第、友達とサッカーばかりして親の心配の種だった。そんなガッセムがテヘランであるサッカーの試合見たさに、何とかお金を工面しようとするが、しかしその方法は…
 イランの巨匠キアロスタミの長編デビュー作。少年の日常の一ページを切り取った作品は「友だちのうちはどこ?」などに通じる世界がある。シンプルで余計なものが一切ないという作り方も最初からだったらしい。

 一番すきなのは、ガッセムが子供たちの写真を撮るシーン。次々とやって子供の写真を撮る、ただそれだけのシーン。お金をもらい、子供を立たせて、シャッターを押す。ただその反復。しかし、次々映る子供の姿や顔にはさまざまなものが浮かんでいる。おそらくこの子供たちは街で見つけたそこらの子供たちで、本当に写真をとってもらったことなどほとんどないような子供たちなのだろう。だからこの部分はある意味ではドキュメンタリーである。
 このシーンは、プロの役者ではない人たちを使ったイラン映画に特徴的な半ドキュメンタリー的なシーンであり、かつキアロスタミに特徴的な「反復」を使ったシーンである。この映画はほかの映画に使ってこの反復という要素は小さいけれど、それでもこの小さなシーンが反復によって成り立っているということは興味深い。キアロスタミの反復といえば、一番わかりやすいのはもちろん「友だちのうちはどこ?」のジグザグ道で、同じように少年が上っていく姿を反復することがこの映画の要になっているといっていい。このような反復がデビュー作の時点で姿を見せている(厳密に言えばデビュー作は短編の「パンと裏通り」であるが、この作品でも反復の要素は使われている)というのはとても興味深い。
 見ている時点では時間もすんなり流れ、物語もストレートで、すっと見れてしまうのだけれど、見終わった後でなんとなくじんわりと来る映画。いろいろなんだか考えてしまう。ガッセムと親友(名前は忘れてしまいました)との関係性とか、親や学校といったもの。イラン人の行動の仕方というものにすっとどうかすることはできないのだけれど、映画が終わって振り返ってみるといろいろなことが理解できてくる感じ。簡単に言ってしまえば少年の閉塞感というようなものですが、その息の詰まるような感じを感じているのは、少年だけではなくて母親だったり、先生だったりするのかもしれないと思う。

トゥルー・ストーリー

Yek Dastan-e Baghe’i
1996年,イラン,125分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:マスード・コラーニ
出演:サマド・ハニ、メヒディ・アサディ、アボルファズル・ジャリリ

 TV用の新しい映画制作のため、主人公を演じる少年を探すジャリリ監督。しかし、なかなか見つからない。そんな時に立ち寄ったパン屋でであった少年サマドが彼のめがねにかなった。ちゃんとした交渉をするため、次の日彼を呼びにやると、彼は店からいなくなっていた。
 撮影予定だったフィクションの撮影を取りやめ、少年サマドの実話をドキュメンタリーという形で映画化した作品。普段から素人の役者を使うジャリリ監督だが、これは完全なドキュメンタリー作品で、また違う趣き。

 いわゆる「映画の映画」なのかと思ったらそうではなく、一人の少年を追ったドキュメンタリーとなる。確かにひとつのドラマとして、人道的というか道徳的というか、そういう物語であり、かつ独善的ではないという点でとてもいいお話だと思う。しかし、これを一本の映画として成立させてしまっていいのかという気もする。
 ジャリリ監督は、素人の少年を映画の主人公に使い、撮影が終わった後もその少年たちを援助し、良好な関係を結んでいるという。それはとてもすばらしいことだし、いい映画が撮れて、かつそのような少年たちが幸福になるならそんなすばらしいことはないと思う。
 しかし、その少年を救うひとつの物語を一本の映画としてしまうと、それは映画監督ジャリリのひとつの行為というよりは、一人の人間であるジャリリがたまたま映画監督であったがためにその行為を記録しただけということになってしまいはしないか? という疑問が起きる。彼はこれをひとつの映画として完成させようと奮闘し、撮影を許可してくれる医師を探した。しかし、それは映画監督であることと一人の人間であることを両立させるということにはつながらず、一人の少年を救うということと映画を完成させるという二つの目標の間で宙ぶらりんになってしまったところから来る妥協のように見えてしまう。
その中途半端さがあるために、映画(つまり作り物)としてまとめるために挿入されたと思われる、カットとカットの間の電子音と暗い一瞬のカットにも空虚さが漂う。そして最後につけられたメッセージもその中途半端さを補うためのつじつまあわせの言葉のように聞こえてしまう。実際のところは心から少年を救いたいと思い、行動したのだろうけれど、映画としての中途半端がそんなうがった見方をさせる余地を残す。
 私は、この映画が映画として完成するためには、本来の目的であった「時計の息子」という作品を何らかの形で制作するか、あるいはサマドを主人公にした(フィクションの)映画を作る必要があると思う。そのそもそも映画として作られた映画と互いに補完することによってようやくひとつの映画世界が完成するように思えて仕方がない。この作品がTV用のものならなおさらそうなんじゃないかと思う。

スプリング-春

The Spring
1985年,イラン,86分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:メヒディ・ヘサビ
音楽:モハマド=レザ・アリゴリ
出演:メヒディ・アサディ、ヘダヤトラ・ナビド

 イラン・イラク戦争が激しさを増す中、老人シナが一人暮らす森の小屋へ連れられてきた一人の少年ハメド。両親から一人離れ、疎開生活をする彼はなかなか森とシナになじむことができない。それでもシナはハメドを温かく見守り、彼につらい思いをさせないように勤めるのだが…
 「ぼくは歩いていく」などのジャリリ監督の長編デビュー作。イラン・イラク戦争というモチーフも、北部の寒い土地という設定もいわゆるイラン映画とは異なる趣き。

 夜の森でシナが聞いたという音。その場面でかぶせられた音はいろいろな音が交じり合い、その後の昼間ハメドが「同じ音を聞いた」という音。それは夜の場面とは明らかに違う音。しかしどちらも複雑に混ざり合い、しかも大きく増長された音。ハメドが聞いたという音は列車の音。しかしそこに混じるいろいろな音。
 ほかにもキツツキの音やラジオなど、「音」が非常に強調された映画である。その描き方にはいろいろな理由付けが考えられるだろう。ジェット機や爆撃といった音と悲劇を結び合わせるハメドの心の反映。主に音を頼りにして森の生活を送るシナの鋭敏さの表現。
 どちらにしても増長された音の表現は彼らの音に対する敏感さを表すのだろう。われわれが日常聞いている音の中に埋もれたさまざまな音をも聞きだす鋭敏な耳。その独特な表現にこの間得な非凡なところを感じるけれど、その表現によって意味されるものを感じ取るのはなかなか難しい。なかなか交わることのできない二人の心。あるいは共通の過去の痛みか…
 ところで、この映画の風景はイランらしくない。やたらと雨が降り、しかも寒そう。砂っぽい砂漠やキシュ島みたいな南の島のイランとは違うイラン。こんなイランもあるんだ、という感じ。
 もうひとつところで、イランには傘がないのだろうか? こんなに雨が振っているのに誰も傘を差していない。「サイクリスト」でも雨が降ってきても、みんな傘をささず、なぜかビニール袋をかぶっていたりする。あまり雨が降らいというなら、傘を差さないというのも理解できるけれど、結構雨が降っているのに傘がないのはなぜ? と思ってしまいます。余談でした。

カンダハール

Safar e Ghandehar
2001年,イラン,85分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:エブラヒム・ガフォリ
音楽:モハマド・レザ・ダルビシ
出演:ニルファー・パズィラ、ハッサン・タンタイ、サドユー・ティモリー

 カナダに亡命したアフガン人ジャーナリストのナファス。20世紀最後の日食の日に自殺するという手紙を妹から受け取った彼女はカンダハールにいる彼女を救うため、戦火のやまぬアフガニスタンに入りカンダハールへ向かう。まずはイラン国境のキャンプへ行き、アフガニスタンに帰る難民の家族に紛れさせてもらったが、簡単にカンダハールにたどり着くことはできなかった。
 キアロスタミと並ぶイランの巨匠マフマルバフが実話を元にアフガニスタンを描いた話題作。一種のロード・ムーヴィーの形をとり、アフガニスタンの現状がわかる形でドラマが展開してゆく。

  まずは「9・11」に触れなくてはならない。隣国に住むマフマルバフはアフガニスタンに気づいていた。そしてアフガニスタンを世界に思い出させようとした。しかしマフマルバフでさえ遅すぎたのかもしれない。マフマルバフが「カンダハール」を完成させたころ、タリバーンはバーミヤンの石仏を破壊した。マフマルバフは「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という文章を発表し、世界にアフガニスタンを思い出させようとした。
 しかし世界は9月11日までアフガニスタンのことを思い出さなかった。私もまたその一人だ。「カンダハール」がもう少し早くできていたなら、何かが変わっていたかもしれない。もう少し早く世界がアフガニスタンを思い出していたならば、何かが変わっていたかもしれない。
 ナファスは妹を救うことができなかったのかもしれない。運命を変えることができなかったのかもしれない。この映画ができたのはナファスを演じるニルファー・パズィラが自殺を図ろうとしている友人を救うためマフマルバフに助けを求めたことに始まった。彼女の友人は自殺を思いとどまったのだろうか?この映画は何かを変えることができたのだろうか?
 しかし、少なくとも、この映画は今後何かを変えることができると思う。ビン・ラディンとタリバーンをEvil(悪)と決め付けてしまったアメリカと世界がこの映画を見たらどう思うか。報道統制をしてまでビン・ラディンを絶対的な「悪」に祭り上げたブッシュはこの映画を見て自らを恥じ入るだろうか? ホワイトハウスからこの映画を見たいという要請があったらしいが、ブッシュは彼が虐殺したタリバーンなるものはこの映画の中で小銃を握りながら列になってクルアーン(コーラン)を読む少年たちに他ならないことに気づくだろうか?個々の人間から遊離したタリバーンという概念を「悪」と決め付けることでそれを構成する人々もまた「悪」であると決め付けるその暴力性。あちこちで言われているように「爆弾でブルカを脱がすことはできない」のだ。
 われわれはアメリカの報復の醜さと非道さをもっと声高に叫ばなければならない。暴力を更なる暴力で打ち消そうとすることのむなしさを訴えなければならない。

 さて、言わなくてはならない、そしてまたもっとも言いたかった「9・11」についてはひとしきり言ったので、その文脈からちょっと距離を置いたところで映画を見てみましょう。
 義足にパラシュートをつけて投下するヘリコプターが結び目となってひとつの円を描く時間。この円の概念はマフマルバフのひとつのイメージだ。「行商人」も一つの時間の円還を描き、「サイクリスト」は回ること自体が映画であり、「パンと植木鉢」にも円を描く時間が出てきた。この円のイメージはハリウッドに代表される西洋の映画の線形の時間に対するアンチ・テーゼだろう。西洋の独善的なものの見方を否定するための足がかりとして時間の概念から突き崩す。そんな意図の現われだと思う。だから線形の時間の捉え方で物語のつじつまを合わせようとしてもそれは無理な話だ。そしてこれをファンタジー、あるいはファンタジックと決め付けて簡単に片付けてしまって疑問を覚えないのは一つの見方でしかものを見られない狭量さである。
 そんな狭量な見方でこの映画をマフマルバフを見ると、映画の中の人々を感じ取ることができない。義足を騙し取ろうとする男や妻の義足を取りに来た男に対処する赤十字の医師の困惑や苛立ちを共有し、彼らを邪険に追い返してしまうことになる。それはこの映画をも追い返してしまうことだと思う。映画の外部から映画の世界に入るには、ブラック・ムスリムの医師のように付け髭をつけて彼らを感じ取ろうとしなければならないのだろう。貧しさですべてを片付けてはいけないと思う。貧しさからすべてを説明しようとしてはいけないと思う。歌を歌うのを見られるのが恥ずかしいという少年ハクとナファスの聞こ
えないところで録音を吹き込むブラック・ムスリムの医師のその相似に、この映画へと入り込む鍵があるのかもしれないと思った。
 円ということに話を戻すと、映画自体も日食に始まり、日食に終わる。その日食はもちろん同じ日食で、これもまたひとつの円還であるのだ。フィルムの最初と最後をつなげば、それは終わることのないエンドレスの物語となる。物語がそのように繰り返されたならば、そこに浮かび上がってくるのはどのようなものだろうかと考えるのは考えすぎだろうか?

グレーマンズ・ジャーニー

Journey of the Gray Men
2001年,イラン=日本,110分
監督:アミル・シャハブ・ラザヴィアン
出演:レザ・シャイクアームドカムセ、アーマド・ビグデリ、アリ・シャサワン

 かつて人形劇の一座を組んでいた三人の男達。老境に達した彼らが再開し、再び人形劇をしながら旅をすることに決める。当時使っていたぼろ車を引っ張り出し、旅に出るのだが…
 ドキュメンタリー風でありながら、決してドキュメンタリーではない不思議な雰囲気をかもし出すロードムーヴィー。

 なんといっても不思議なのはこの映画の性格。ドキュメンタリー風の映像で作ったフィクション映画がはやっている昨今、しかしこの映画はどういったドキュメンタリー風のフィクションでもない。むしろそんなドキュメンタリー風フィクションをパロディ化したような作品。それもいかにもイランらしいやり方で。コンセプトとしては監督の父親の体験を素人の役者を使って再現したというものだが、なぜかそこに映画クルーが時々入り込んでくる。たとえば、老人がトラックの上で何かに熱狂している若者達とけんかになるシーン。すえつけられたカメラにフレームインしてきて、正面で止まり、そこでけんかになるのだが、それを止めにクルーが入っていく。このあまりに作り物じみた茶番劇。これがパロディではなくてなんなのか?
 そして最後まで何が映画の中心なのかが見えないプロット。もちろん映画に中心なんてなくていいのだけれど、ここまで散漫なのも気になる。結局のところ監督自身の収拾のつかない心をそのまま表現してしまったという感じに見えるけれど、ここまで作り物じみていると逆にそのように見えるように作りこんだのではないかと深読みしてしまう。最後に登場するエピソードの真実性までも疑いたくなってくる。
 その素直ではない感じがイラン映画のイメージとは相反してとても興味深い点となってもいるのですが。

少年と砂漠のカフェ

Delbaran
2001年,イラン=日本,96分監督アボルファズル・ジャリリ脚本アボルファズル・ジャリリレサ・サベリ撮影モハマド・アフマディ出演キャイン・アリザデラハマトラー・エブラヒミホセイン・ハセミアン

 アフガン人の少年キャインは戦争が続くアフガニスタンを逃れ、イランの国境にきた。そこからカフェを営む老夫婦の下へと流れ着いた彼はそこで店の手伝いなどをしながら平和に過ごしていた。しかし、イランではアフガンからの不法入国者が問題となっており、そのカフェにも度々警察が出入りしていた…
 砂漠と少年というイラン映画のひとつの典型的なモチーフの中に、アフガニスタンという問題を編みこんだ作品。他にもいろいろと考えさせられることでしょう。

 荒野と少年、まさにジャリリらしく、イラン映画らしい始まり方。セリフも少なく、効果音もなく、淡々としている。構図はシンプルにして美しく、決して斬新ではないけれど、よく考えられている。人やものの配置の仕方、パッと挿入される静止画のような映像。それらの映像美はイラン映画にしかできない独特の美学だと思う。
 しかしそんなことばかり言っていてはイラン映画は皆同じということになってしまうので、この映画の何が独特かを考える。映像の面で気付いたことといえば、被写体がフレームアウトしない。この映画ではカメラが捕らえる中心的な被写体がフレームアウトすることはない。カットの切り替わりは被写体がまだ画面に残っている間に行われる。前を車が通過したりすることはあっても、中心的な被写体はフレームアウトしない。唯一といっていい例外は軍用トラックが何台か通り過ぎる場面で、3台か4台のトラックが画面の右から左へと消えてゆく。だからどうということもないですが、ちょっと小津が「画面を横切るなんてそんな下品なことできない」といっていたのを思い出しました。
 さて、この映画はかなり強いメッセージを持つ映画だと思いますが、アフガンを取り上げているからといって反戦ということではなくて、漠然とした愛のようなもの。それを敷衍させていけば反戦にもつながるというもの。
**注意**
 こういう結論じみた事を書いてしまうのはあまり好きではないのですが、これを書かずにこの作品を語ることはできんと思うので書いてしまいます。映画を先入観を持って見たくないという(まったくもっともな)意見の人はここから先は読まないでね。
**注意終わり**
 このセリフの少なさにもかかわらず、キャインと老夫婦の間の愛情というのが滲み出してくる。もちろん警察での場面などそれが明確に出てくる部分もあるけれど、ただおばあさんが窓から外を眺めているだけで、そこに何か愛情の視線のようなものを感じるのは不思議だ。そしてそのセリフの少なさは穏やかで、言葉なしでも通じ合う心というようなものを表現しているのだろう。その愛情はキャインと老夫婦に限らず通りすがりの人までも及ぶ。この映画の登場人物たちはちょっとしたけんかをしても次のシーンではすでに仲直りしている。
 この映画はこの愛情の由来をおそらく宗教に持ってきている。イランの人たちは宗教熱心な人が多く、この映画でも宗教的なシーンがでてくる(特に顕著なのは礼拝のシーンと結婚式のシーン)。同じ神を愛する者達が本当に仲違いなどできるわけはないと、監督は言いたいのではなかろうか。
 さらに、映画中の宗教儀式を行うのが主にアフガン人であることから、あえて深読みすれば、戦争によってムスリム同士が敵対することの無益さを主張していると読めなくもない。

ぼくは歩いてゆく

Don
1998年,イラン,90分
監督:アボルファズル・ジャリリ
脚本:アボルファズル・ジャリリ
撮影:ファルザッド・ジョダット
出演:ファルハード・バハルマンド、バフティアル・バハ、ファルザネー・ハリリ

 9歳のファルハードは戦争中に生まれ、両親が届をしなかったために戸籍がない。しかも父親は麻薬におぼれ、服役を繰り返す。学校に通うこともできないファルハードはもぐりで雇ってくれる働き口を探して歩き回る。ただ一枚の身分証のために雇ってもらえないファルハード、それでも彼は歩きつづける。
 ジャリリが街の少年の経験を少年自身によって再現させたフィルム。いまだ混迷するイランの社会を克明に描く。

 少年の経験を少年自身によって再現したことの利点は、ファルハード少年が過去を追体験することによってよみがえってくる感情のリアルさ。特に表情に表れる彼の不安感がリアルである。
 社会的な問題を少年の視点から見るというモチーフはイラン映画では定番。したがってこのモチーフで秀逸な映画を作るのは難しい。どれも良質ではあるけれど、「これはすごい!」と驚嘆できるものはなかなかないのです。同じモチーフを繰り返すことからくる弊害。なんだか区別がつかなくなってくる感じ、それがこの映画にもあります。
 ということなので、モチーフから離れてテーマ的なものへと話を進めましょう。私がこの映画を見て一番考えたことは「嘘」ということ。少年の口をつく数々の嘘、嘘をついてきたがために上塗りしなければならないさらなる嘘、理由はないけれど反射的についてしまう嘘、それらの無数の嘘が果たして本当なのか嘘なのか最初はわからない、しかし映画を見進めるに連れて、「嘘なんだろうな~」と断定的に見てしまう自分がいる。そんな自分も怖いし、少年にそうやって嘘をつかせてしまう社会も怖い。その嘘をつくときの少年の表情は今にも泣き出しそうで、その表情が目に焼きつきます。
 そのようにして少年の感情に誘導されたわれわれは大人たちの理不尽さに怒りを覚え、少年の当惑と憤りを肌で感じることができる。

キシュ島の物語

Ghesse Haye Kish
1999年,イラン,77分
監督:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
脚本:ナセール・タグヴァイ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ
撮影:アジム・ジャヴァンルー、マスード・カラニ、アハマド・アハマディ
出演:ホセイン・パナヒ、ハフェズ・パクデル、モハマド・A・バブハン

 ペルシャ湾に浮かぶ小さな島キシュ島、リゾートとしても知られるこの島を舞台として3人のイラン人監督が撮った短編集。
 1話目「ギリシャ船」は新鋭監督ナセール・タグヴァイが海に浮かぶ錆付いた難破船に流れ着いた大量の段ボールをきっかけにおきた事件を描いた作品。
 2話目「指輪」は日本でも知られているジャリリ監督が、仕事を求めて島へやってきた青年が海辺の小屋でひとり働く姿を淡々と描いた作品。
 3話目「ドア」は巨匠マフマルバフが砂漠をドアを担いで歩く老人を撮った作品。
 どの作品も美しい風景をより美しく見せるような幻想的な物語。音楽というかサウンドも耳に残る印象的なもの。

 やはり、マフマルバフの作品が一番いいかなと思いますが、ジャリリのも捨てがたい。1作目のタグヴァイ監督の作品は日本人が抱くイランというイメージに比較的近いものではないかと思います。貧困、イスラム教、エキゾチズム、ある意味でオリエンタリズム的な中東に対するイメージ、そのイメージに合致するようなイメージで描かれているのが逆に平凡で面白みにかけると思ってしまいます。ただ、海に浮かぶ難破船のイメージは絵的にすごくいいのですが。
 2話目の「指輪」は物語としては一番好きです。ジャリリ監督は基本的に起伏の少ないドラマをとりますが、この作品もその一つ。しかし、淡々と働く青年の姿は辛そうではなくどこか楽しそうで、そこに共感をもてます。しかし、最後までトラックに入れているものが何なのかは分からなかった。イラン人にはすぐ分かるんでしょうね。ただの海水なんだろうかあれ?
 3話目マフマルバフはさすがに発想の勝利。この監督の発想の素晴らしさには舌を巻くしかありません。冒頭の砂漠だけの画面に手前からドアが登場し、それが画面の奥にゆっくり去っていくところをずーと映しているシーン、これだけで、マフマルバフの勝ち。砂漠とドア、どうしてこんなイメージが頭に浮かんでくるのかは全くの謎です。そして、郵便配達が、そのドアをノックした瞬間に本当にマフマルバフはすごいと思ってしまう。奇妙なようでありながら、絶対にこれは現実だと思わせるような何かがそこにあるのです。みんな本気であのドアをドアとして扱っているひとりもからかい半分に扱っている人はいない。そう信じさせることが重要であり、それを成功させているわけです。ただ1人(1匹ね)ヤギだけが…
 やはりマフマルバフ強し。しかし、全体的にはなんとなくキシュ島観光キャンペーンという気もしてしまいました。たしかに「いいとこだな」とは思いましたが、なんか宣伝じみていて、ヴェンダースの「リスボン物語」を少し思い出しました。

パンと植木鉢

Un Instant d’Innocence
1996年,フランス=イラン,78分
監督:モフセン・マフマルバフ
脚本:モフセン・マフマルバフ
撮影:マームード・カラリ
音楽:マジド・エンテザミィ
出演:ミルハディ・タイエビ、アリ・バクシ、アマル・タフティ、マリヤム・モハマッド・アミニィ

 マフマルバフ監督のもとを訪れたごつい男は、20年前に政治少年だった監督が銃を奪おうと襲った元警官だった。その当時の話を映画に撮ろうと考えた監督は少年役のオーディションを行う。元警官の男も自分の少年役の少年を選ぶのだが、監督と意見が衝突してしまう。
 静かで美しい、しかし緊迫感のある作品。いわゆる映画の映画だが、そこに仕掛けられた様々な仕掛けは並みの映画とは違う。

 この監督の作品はいつも不思議ですが、この作品もかなり不思議な作品。過去と現在が、映画と現実が交錯する。その交錯する瞬間を捉えようとする映画をとる人たちをとる映画。そこに現れる緊迫感の波もすごい。「どうなってしまうのか」という緊迫感がひしひしと伝わる場面がある一方で、全くほのぼのとする場面がある。緊迫する場面の最たるものはラストシーンで、こんな設定でものすごくドキドキしてしまうのが不思議。一方、ほのぼのとするシーンはなんとなく微笑がほほに浮かんでしまう。その中で一番すきなのは、元警官とそれを演じる少年が行進の練習をしながら雪の道を歩いていくところ。それは本当に美しく、ほほえましく、感動的だ。
 なんといえばいいのか、美しい映画は見るものから言葉を奪ってしまうけれど、これもそんな映画。とにかく不思議で、美しく、面白い。「サイクリスト」を見ていると不思議さというのはイランという馴染みのない文化のせいなのかと思うところもあったが、この映画を見るとそんなことは全く関係ないのだと思う。ただ美しい映画を撮るために、理解させるという方法論を放棄してしまった映画。そんな感じすらする。しかしそれはいわゆるアート系の難解さとは正反対のシンプルなもの。なんとなく分かるんだけれど、考えてみるとなんだかわからない。そんな不思議さが映画に浸る気持ちよさを演出していると思う。