がんばっぺフラガール!

がんばっぺ フラガール!

 2011年3月11日に起きた東日本大震災、福島県いわき市にあるスパリゾートハワイアンズも建物に被害を受け、営業停止を余儀なくされた。地元出身者が大部分を占めるフラガールたちも被災者となってしまったが、1ヶ月後、再会に向けて全国キャラバンをはじめることに。同時にハワイアンズでは被害の少なかった宿泊施設に被災者の受け入れを行なっていた。
被災したスパリゾートハワイアンズが部分再開する10月1日までの約半年を追ったドキュメンタリー。本当に福島の人たちの想いが詰まった作品。

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ギリギリの女たち

 古ぼけ、ガランとした家にやってきたひとりの女、実はそこは気仙沼市にある実家で、はからずも同じ日に3姉妹がやってきて15年ぶりの再開を果たす。しかし、長女はいきなり眠りこけ、次女と三女は長女を心配しながらなんとか過ごし始めるが、15年の空白はあまりに重かった…
小林政広監督が3.11後に居宅を持つ気仙沼市高桑町を舞台に描いたドラマ。

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オバアは喜劇の女王 ~仲田幸子 沖縄芝居に生きる~

 劇団でいご座の座長仲田幸子は芸歴65年を迎える今も沖縄のオバアたちを笑わせる喜劇の女王。その芸歴は戦争直後に遡る。その戦争体験や戦後の貧しい生活、芝居への想いを自ら語る。そしていま劇団で一緒に舞台に立つ孫の仲田まさえも「おばあちゃん」への思いを語る。
沖縄では知らない人はいないけれど本土ではほとんど知る人がいない演劇人仲田幸子を追ったドキュメンタリー。映画としての作りはイマイチだが、サチコーは面白い。

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闇の子供たち

描かれるのは社会の闇それ自体ではなく、それを見つめるわれわれの欲望

2008年,日本,138分
監督:阪本順治
原作:梁石日
脚本:阪本順治
撮影:笠松則通
音楽:岩代太郎
出演:江口洋介、宮崎あおい、妻夫木聡、豊原功補、塩見三省、佐藤浩市

 日本新聞社のバンコク支局で記者を務める南部浩行は本社から闇ルートで行われる臓器移植について調べるよう言われる。調査を開始すると、臓器提供者は生きたまま臓器を取られるという可能性が明らかになってくる… 同じ頃、日本で社会福祉を学んだ音羽恵子は社会福祉センターでボランティアとして働くためバンコクにやってくる。
 阪本順治が梁石日の同名小説を映画化。衝撃的な内容でタイでは上映が見送られる字体となった。

 タイで横行する幼児売春と存在するといわれている臓器の闇売買を描いた社会派ドラマ。と、言いたいところだが、これを社会派ドラマというかどうかは微妙だ。そもそも社会派ドラマとは何を指すかということ自体あいまいだが、基本的には「事実に基づいて社会で問題になっている題材に一定の見解を示す」とでもいう感じだろう。重要なのはその映画が“社会派ドラマ”と目されると、そこで描かれていることの真実性が問題となるということだ。社会の問題について語るなら、その問題が真実でなければ話にならないからそれは当たり前だ。タイの幼児売春について描けば、それが存在することは真実だから社会派ドラマになりうるということだ。

 この作品に登場する日本人のロリコン男の部分は社会派ドラマとして成立している。タイにまで行って幼女を買い、その子供を強姦してインターネットのコミュニティに自慢げにそれをさらす。そのようなことがいまも横行していることは確かだし、それは由々しき問題である。

 あるいは、社会で問題とされていることが真実なのかどうかを議論するというパターンも社会派ドラマたりうる。それは“見えない事実”について語られるときにありうるパターンだ。たとえばアパルトヘイト後の南アフリカについて描かれた『イン・マイ・カントリー』などはその“見えない事実”について語った社会はドラマだ。

 しかし、この『闇の子供たち』が描いている臓器売買についてはどうだろうか? これは議論に値する社会的テーマだろうか? もちろん子供を殺して臓器を売るなんてのは言語道断なことだが、それは誰が考えても言語道断なことであり、そのことを知りながらわが子の臓器移植を望む人間について議論の余地などないのではないか? それではこれを社会問題とし議論する対象にはなりえない。

 それよりもむしろこの映画が描こうとしているのは人間の欲望の問題だろう。幼児買春も欲望の発露であるが、他人の子供の命を奪ってまで自分の子供の命を助けるというのも極端ではあるが欲望の発露なのではないか。この映画が語りかけてくるのは、そこにある問題をどうするかということではなく、われわれが抱える欲望をどうするのかということだ。タイの子供が犠牲になることを知ってまで自分の子供を生かしたいと思ってしまう欲望、それは道義心によって打ち消されるけれど、その欲望が存在するという事実を消すことはできない。その欲望を抱えながら生きていくということの意味をこの作品は問うていると考えることもできるのではないか。

 この映画の結末はどこか突拍子もないという印象のものだ。しかし、この“欲望”という視点で見てみるとすべてがつながっている。人間の欲望がもたらす悲劇、その悲劇が全編を貫き、この作品に登場するすべての人を悲しみの陰が覆っている。

 ただ、宮崎あおいと妻夫木聡が演じた日本人の若者ふたりだけはそこから逃れているようにも見える。それは彼らがまだ自分の欲望の何たるかをわかっていないから、無邪気に“自分探し”を続けているからだ。そこに日本という国の安寧さが透けてみる。しかし、彼らはタイにやってきてそこにはびこる欲望と、それがもたらす悲劇に身をさらすことで目的どおり“自分”を発見するだろう。そのことによって自分もまた悲しみの陰から逃れられなくなるわけだが。

 世界を悲しみの陰で覆う欲望の発露は時代とともに激しくなってきているように見える。それは絶対的な人口の増大にもよるのだとおもうが、資本主義という社会体制が欲望を拡大再生産するシステムであることにも遠因があるのだと思う。“欲望の世紀”と呼ばれた20世紀は終わったけれど、欲望の拡大再生産は終わらない。ルネ・ジラールが欲望論の教科書といわれる「欲望の現象学」を著したのは1961年、それからまもなく50年になるがわれわれはまだまだ自分自身の欲望を処す術を身につけられてはいない。とりあえず知っておかねばならないのは欲望の発露がどこかで悲しみを生むかもしれないということ、この映画はそのことを壮大なスケールで描いたメッセージなのではないか。

 演出も説明も過剰でドラマとしてはちょっと退屈だが、その過剰なわかりやすさが、表面に描かれた問題の奥にある“欲望”の問題を浮かび上がらせる触媒になってはいる。阪本順治という監督は上手ではないが、真摯だし、作品になるべくたくさんの物事を盛り込もうとしている。そんな風に感じた作品だった。

落語娘

落語の世界を細かいところまで上手に描いていて気持ちがいい

2008年,日本,109分
監督:中原俊
原作:永田俊也
脚本:江良至
撮影:田中一成
音楽:遠藤浩二
出演:ミムラ、津川雅彦、益岡徹、伊藤かずえ、森本亮治、利重剛

 12歳のとき、大好きな叔父のために落語を覚えた香須美は落語の虜となり、大学では落研で学生コンクールで優勝、憧れの三松家柿紅に入門を願いでる。が、その3年後の現在、香須美は三々亭平佐のただひとりの弟子、平佐はテレビで問題を起こして現在謹慎中、香須美は肩身の狭い思いをしていた。
 落語界に飛び込んだひとりの女性を描いたコメディ・ドラマ。落語という素材を生かしたプロットや設定で、落語好きもそうでない人も楽しめる作品になっている。

 男社会の落語界に女性が入るというと、NHKの連続テレビ小説「ちりとてちん」がまず思い出される。この映画もそんな男社会で女性が苦労しながら成長する話なのかと思うと、そんな話でもありながら、それだけではない。

 作品のテーマとしては結局そういうことなのだが、この作品が取り上げるのは香須美の師匠の平佐が演者を呪い殺すという禁断の話を40年ぶりに高座にかけるという挑戦を描いたちょっとオカルトめいた物語である。

 女性落語家を主人公としながら、彼女自身の物語を中心に持ってこないことでこの映画は成功した。もしただ彼女だけの話にしてしまっていたらべたべたしすぎてちっとも落語的ではなくなってしまっただろう。そんな意味では香須美が大学の後輩から「ずっと好きでした」と告白されたことに対する処理の仕方も、平佐とTV局の女プロデューサーとの関係も落語的でいいと思う。

 落語ファンとしては、撮影場所となった末広亭の楽屋の様子を見ることができたりするのは嬉しい。落語監修として参加している柳家喬太郎が末広亭の高座でおなじみの枕を語っているのがほんの数秒映ったり、春風亭昇太が彼らしい役で特別出演しているというのもうれしい。

 津川雅彦の高座もうまい。彼の役は赤いバンダナを頭に巻いていかにも立川談志を参考にしたという落語家なので役作りもしやすかったのだろう。1本のネタを完全に高座にかけるとなったらどうかわからないが、1カット分の長さで演じられる落語を見る限りその辺の落語家に劣ることはないうまさだ。これがベテラン俳優のうまさというところだろうか。

 若い女性に落語ブームが続いていることもあって、女性の入門者は年々増えているというが、女性の真打はまだ少なく、女性落語家の地位は低い。この映画の中で益岡徹演じる三松家柿紅が言うように落語家を寿司職人にたとえて女性落語家を否定するというのもよく聞く。私はそれはあくまでも“慣れ”問題だと思うが、落語というのは基本的に男性の視点で作られているものが多く、女性がそのまま語ったのでは違和感がある噺が多いことも確かだ。

 落語というのは古典であっても話し手によってさまざまにアレンジがなされて個性が出るもの、男性であろうと女性であろうと、その話を自分のものにしてこそ本当の落語家になれる。女性のほうがその労苦は少し多いと思うが、きちんと消化して自分の噺として語ることができればどんな観客でも納得するのだと思う。

 こんな映画が作られている間はまだまだ女性落語家なんてのは動物園のパンダのようなもの。女性の真打が当たり前になって本当の人気落語家が女性から出てくれば落語という芸の幅も広がって、また違った形で映画にもなるかもしれない。ぜひ頑張って欲しいものだ。

雪の下の炎

自らのプロパガンダ性を暴露してまで訴える“正義”の映画

Fire under the Snow
2008年,日本=アメリカ,75分
監督:楽真琴
撮影:ブラディミール・スボティッチ、リンク・マグワイア、楽真琴
音楽:アーロン・メンデス
出演:パルデン・ギャッツォ、ダライ・ラマ14世

 1959年のラサ蜂起に際して逮捕されたチベット僧のパルデン・ギャッツォは33年間に渡る囚人生活で幾多の拷問を経験し、多くの仲間の死を目にしてきた。現在はインドに亡命してチベット独立のための運動を続ける彼はアメリカやイタリアに渡って世界に訴えかける。
 中国のチベット弾圧の生き証人パルデン・ギャッツォの半生と現在の活動を追ったドキュメンタリー。監督はNY在住の日本人監督楽(ささ)真琴、これが初の長編作品になる。

 チベットにおける中国による人権侵害は、2008年の北京オリンピックに際して大きな問題となった。そしてその翌年2009年は1959年のラサ蜂起から50年という節目の年を迎え、その問題にさらに焦点が当てられることとなった。

 そしてこの映画の主人公パルデン・ギャッツォはその50年のうち33年間を囚人として過ごしたチベット僧である。しかも彼が刑務所に入れられた理由は簡単に言ってしまえばチベット独立を訴えたからである。しかもその間、度重なる拷問が行われ、周囲では仲間が次々と死んでいった。

 この映画はそのパルデン・ギャッツォが1996年のチベタン・フリーダム・コンサートで自分の拷問に使われた“電流棒”を示すところからはじまる。しかし彼はその悲惨な自分の状況を無表情に語り、舞台裏では満面の笑顔を浮かべる。衝撃的な事実と彼の魅力、それが冒頭にはっきりと示されて見るものは彼の人生にぐっと引き込まれる。

 このドキュメンタリーはパルデン・ギャッツォという魅力的な人物を通して「チベット解放」を訴える映画である。ドキュメンタリーには乱暴な言い方をすれば2つある。ストレートな主張をする映画と客観的に観察する映画である。ほとんどのドキュメンタリーはこの2極の間のどこかにあるといえるのだが、この作品は「主張をする映画」という極にほぼ一致する位置にある。

 その内容は今までなかなか私たちの目には触れることのなかったチベット弾圧の事実を白日のもとにさらすものであり、正義を主張するものである。虐げられているチベットの人たちに目を向けろと世界に訴えるそんな正義の映画だ。

 ただそのためには手段を選ばない。中国政府は徹底的な悪人に仕立て上げられ、IOCまでもそれに加担する“敵”のような描かれ方をする。作品の中にはパルデン・ギャッツォの平和だった子供時代を想起させるようなスチル写真や回想シーンじみた再現フィルムが挿入される。それは彼の少年時代そのものを記録したものでは決してないにもかかわらず、彼の半生を語る文脈の中で何の説明もなく使われる。

 中国政府が刑務所で行った暴力的な“洗脳”とはもちろん比べるべくもないが、一方的な情報を都合のいい創作まで加えて伝えるというのはプロパガンダへの道を開く。しかし、この作品はプロパガンダに陥るすれすれのところで踏みとどまっていると私は思う。それはこの創作部分が「明らかに」彼の少年時代そのものではないというところにある。明らかに事実そのものではない映像を挿入することで、自身のプロパガンダ性を明らかにしているのだ。

 世界を目覚めさせるには極端と言っていいほどの刺激が必要になることもある。この作品はあえてプロパガンダ的な要素を取り入れることで刺激を強め、見る者の無知を攻撃する。事実のような顔をしたドキュメンタリーが必ずしも客観的な視線を保っているとは限らないということを自ら暴露しながら、なおも主張し続ける。その主張は確かに力強い。

 ただその内容は決して暴力的ではないということも最後に言っておく必要があるかもしれない。パルデン・ギャッツォは本当に強い人間だが、あくまでも優しく慈愛に満ちている。彼の優しい笑顔こそがこの映画の最大の武器なのだ。

片腕マシンガール

危険!グロさ満点のスプラッターアクション、井口昇のワンステップ。

The Machine Girl
2007年,アメリカ=日本,96分
監督:井口昇
脚本:井口昇
撮影:長野泰隆
音楽:中川孝
出演:八代みなせ、亜紗美、島津健太郎、穂花、西原信裕、川村亮介

 弟をいじめの末殺された女子高生のアミはいじめグループのリーダーであるやくざの息子木村翔に復讐を果たすため、失った左腕にマシンガンを装着し、立ちはだかる敵を殺し続ける…
『恋する幼虫』の井口昇がアメリカで日本の映画作品の輸入を手がけてきた“メディアブラスターズ”の出資によって撮り上げたバイオレンス・アクション。残虐シーンが盛りだくさん。

 井口昇はスカトロもののAV出身で、AVも撮り続けつつ『恋する幼虫』なんて一般映画も撮ってきた。スカトロ出身なだけに人間の肉体に対する執着は凄まじく、人間の体のかたちが何らかの形で変貌を遂げるという現象を執拗に映像にしてきた。これまでもやたらと舌が長かったり、目ん玉を出し入れしてみたり、いろんなことをしてきた。

 今回はそれが女子高生の腕がマシンガンになるというかたちをとり、さらにさまざまな暴力と特殊効果によって腕や首や胴がもげたり、穴があいたり、真っ二つになったり、焼け爛れたりする。これらの残虐シーンははっきり言って気持ち悪い。スプラッター映画に目を向けられないという人は吐き気を催すであろうほどのひどさだ。

 しかし、それは逆にそのスプラッターを演出する特殊効果のリアルさを裏打ちするものでもあるし、洗練されたアクションシーンがその印象をさらに強める。こういう過剰にリアルな残虐なアクションというものにはカルト的な需要が常にある。それはカルト≒異形という構図の範疇に収まるもので、それが暴力/アクションとつながることでそのマーケットは広がる。そのジャンルではかなり完成度の高い作品ということができるだろう。

 暴力的なカルト映画というとどうもいい印象をもたれないが、たとえばクローネンバーグやジョン・カーペンターなんてのも、もともとはそんなマーケットから現れたということも出来るだろう。

 残虐性というのは肉体の欠落と常に表裏一体であり、肉体の欠落とは異形とつながる。そして異形は畏敬につながる。“健康な”社会は異形を社会の前面から排除し、見えないものにしてしまうが、それは私たち自身と表裏一体のものとして存在しつづける。異形を描くカルト映画というのは私たちが抱え続ける“闇”の部分をそのように描くからこそ魅力を持っているのだ。

 だからカルト映画の中には私たちが日常の中で忘れがちな“闇”の中の事実を突きつける名作が時々表れる。たとえばクローネンバーグの『スキャナーズ』なんかがそれだし、日本ではこの井口昇監督の『恋する幼虫』なんかがまさにそうだ。

 というわけでこの作品にも期待していたわけだが、このような過剰な暴力との結びつきは私にとっては残念な方向性に進んだといわざるを得ない。彼の異形に対するまなざしは以前の作品ではもっと優しく、誇張しながらもわれわれに何かを投げかけていた。しかしこの作品は異形を圧倒的な暴力と結びつけることで単なる肉体の崩壊に堕してしまっている。異形と暴力を結び付けるにしても、その異形に対するまなざしにもっと深みを持たせて欲しかった。

 悪役が徹底的に悪役なのはいい。しかし肉親が殺された憎しみによって人々が残虐性を容易に獲得してしまうというプロットは絶望的過ぎはしないだろうか? 肉の塊となってしまった肉親を見て人々が感じるのは漏れなく憎しみなのだろうか? その単純化がこの作品に決定的な欠点となっている。

 カルト映画がカルト映画として一般映画ファンにも受け容れられるためにはそれが一般映画にはない複雑さをもっているときだけなのではないか。表面的には単純な暴力を描いていても、その裏には哲学的あるいは冷笑的な意図が潜んでいる。そんな意図がこの作品には欠如していると思う。

 もちろんこれは井口監督のアメリカ進出の第一歩であり、本格的に“暴力”に取り組んだ最初の作品でもある。いつの日か“暴力”を彼なりに消化して本当に世界に通用する傑作を撮ってくれるだろうと私は期待している。

てんやわんや

四国独立という奇抜な話ながら意外に人情話なコメディ映画。

1950年,日本,96分
監督:渋谷実
原作:獅子文六
脚本:斎藤良輔
撮影:長岡博之
音楽:伊福部昭
出演:佐野周二、淡島千景、志村喬、藤原釜足、三井弘次、桂木洋子

 東京でサラリーマンをしていた犬丸順吉は東京がいやになり会社をやめる。しかし世話になった社長の言いつけで社長の郷里である四国は伊予に行くことになる。そこで知り合った町会議員の越智らから四国独立計画の話しを聞かされ、いつの間にか巻き込まれていってしまう…
 獅子文六の同名小説の映画化。宝塚の娘役トップスター淡島千景が松竹に入社し、映画デビューを飾った作品

 敗戦から5年後の日本、まだまだ民主主義なんてものは定着していない。そんな中、四国を独立させようと考える3人の男たち。そもそも四国を独立させようというのに仲間が3人しかいないってのがすごい話しだし、独立しようという理由もよくわからない。しかし、よくわからない時代にはよくわからない人がいるもので、まあそんなこともあるんだろうなぁと納得してしまったりもする。

 しかし、そのことと主人公の犬丸順吉とはあまり関係がない。この若者はただ東京から逃げ、選挙運動がいやだからといって仮病を使い、山奥の家で知り合った美貌の娘(桂木洋子)に熱を上げてしまう。東京には世話になった社長と知らぬ中ではないその秘書のこれまた美貌の娘(淡島千景)がいる。

 この淡島千景は本当にきれいだ。登場シーンからして会社の屋上で水着姿で日光浴をしているというのだから、その美貌と肉体美とがこの映画の売りになっていることは一目瞭然。宝塚の大スターが銀幕デビューするのだから、まあそのくらいのことはやってもいいだろう。淡島千景はこのあと順調にスターへの階段を上っていくだけあってただきれいなだけではなく、演技もそつなくこなす。松竹三羽烏の一人である佐野周二を無効に張って遜色のない存在感だ。

 さらに脇役も志村喬、藤原釜足、三井弘次と芸達者がそろいみんなうまい。

 にもかかわらずこの映画が今ひとつ面白くないのは脚本がよくないせいだろう。ただ時間が過ぎるだけではらはらやどきどきという要素がない。コメディ映画化と思いきや笑いもほとんどない。人情話的な感じは随所に感じられるが、いろいろな話が盛り込まれて注意が散漫になってしまうので今ひとつ盛り上がらない。

 原作は獅子文六の新聞小説。原作のほうはもう少し面白そうな感じがするのでなんとももったいない映画だと思ってしまう。

風花

メロドラマの名手木下恵介の実験的モダニズムメロドラマ

1959年,日本,78分
監督:木下恵介
脚本:木下恵介
撮影:楠田浩之
音楽:木下忠司
出演:岸恵子、久我美子、有馬稲子、川津祐介、笠智衆

 長野県の寒村の名家名倉家の使用人春子は戦時中に名倉家の次男英雄との心中を試みるがひとり生き残り、息子捨雄を生んだ。捨雄は使用人として扱われながらも跡取り娘のさくらに思いを寄せるが、そのさくらもついにお嫁に行くことになり…
 木下恵介が農村を舞台に展開するメロドラマ。時間軸を交錯させる語りが斬新だが、内容はきわめて古典的。

 “家”へのこだわり、体面を過剰なほどに気にする考え方、男女関係に対する頑なな制限、そんな古きよき(?)日本の考え方が如実に現れた農村の名家を舞台にしたメロドラマ。その中心にいるのは東山千栄子演じる“おばあちゃん”。8歳年下の男のところに嫁に来たことで後ろ指を差されながら、夫亡きあとも家名を守るためにひとり奮闘し、“心中”などという恥さらしな行状に及んだ春子と英雄を許すことはない。

 この東山千栄子の「やなババア」加減がものすごい。捨雄や長男の嫁であるたつ子が屈辱に耐えてこぶしを握るその姿が目に浮かぶようだ。しかし最も屈辱的に感じていいはずの春子はまったくと言っていいほど反発心を見せない。忍従しているという感じでもなく、むしろすべてをあきらめているという感じだ。それはこの作品の登場人物のほとんどが縛られている日本的な価値観によるものだろう。心中に失敗したことで春子は自分が死んだも同然だと感じ、何の意欲も希望も持たずに生きる。死んだ英雄とその家族に対する申し訳ない気持ちもそれを後押しする。だから彼女からはもはや感情が失われてしまっているのだ。

 この作品はそのような登場人部たちの感情をつぶさに描きながらクロースアップという手法はとらず、徹底的にロングショットで関係性をとらえる。そのどこか覚めた感じが私はいいと思ったが、メロドラマ的にはもっとそれぞれの人物に迫ってどろどろとした心のうちを吐露させたほうが盛り上がったようにも思える。

 あえて時間軸を交錯させ、まったく同じシーンを反復し、不自然にも思える展開に仕上げたことも含めてこの作品はどこか木下恵介の実験という印象が強い。木下恵介といえば『喜びも悲しみも幾歳月』のような“ベタ”なメロドラマを作るという印象が強いのだが、単に古典的な文法を踏襲してメロドラマを作り続けるだけではこれほどまでに名を残すことは出来なかったはずだ。今の目から見れば“ベタ”と見える作品の数々も実はその時代時代の手法を取り入れ、工夫して作り上げたものなのだということは間違いがない。そしてこの『風花』はそのような時代感覚を取り入れる作品の一つ、50年代末から60年代に日本映画界を席巻するモダニズムとメロドラマを融合させようという試みの一つであったのだろう。

 はっきり言ってその試みは成功してはおらず、ぎこちない作品になってしまった印象は否めないが、黄金期の日本映画を見通す上で一つのヒントを与えてくれる作品ではないかと思う。この時代の日本映画のファンならぜひ見ておきたい作品だ。