アンナ・マデリーナ

安娜瑪徳蓮娜
1998年,香港=日本,97分
監督:ハイ・チョンマン
脚本:アイヴィ・ホー
撮影:ピーター・パオ
音楽:チュー・ツァンヘイ
出演:金城武、ケリー・チャン、アーロン・クォック、レスリー・チャン、アニタ・ユン、ジャッキー・チュン、エリック・ツァン

ピアノの調律師のチャン・ガーフは調律に行った先の家で小説家を名乗る謎の男モッヤンに出会う。モッヤンは居候していた女の家を飛び出し、ガーフの家に転がり込んでふたりの共同生活が始まる。その共同生活も落ち着きを見せてきたころ、ガーフのアパートの上の階にモク・マンイーという女性が引っ越してくる。モクに弾かれるガーフ、衝突するモクとモッヤン…

日本でも名前が売れていた金城武とケリー・チャンを主役に起用して香港との合作で恋愛映画を撮るという一見売れ線狙いの映画ながら、映画としてのできは非情に地味で、通好みの映画という感じになっている。レスリー・チャンやアニタ・ユンなど脇役人も豪華。

映画の題名は映画の中でも言及されているようにバッハの奥さんの名前から来ている。そしてその奥さんのために書いた「メヌエット」が映画を通して鳴るひとつの響きとしてある。この「メヌエット」はピアノでもバイオリンでも楽器を習ったことがある人なら一度は弾いたことがある曲、なので体にすっと入ってくる感じがする。

映画の構成も第1楽章から第4楽章となっていて、クラッシク音楽の構成によっている。メヌエットが果たして4楽章構成なのかは知りませんが、とにかくこの映画は音楽になぞらえられているということは確か。

しかし、別に映画が音楽的というわけではなく、そういう構成になっているというだけの話。だから実際のところ、この映画は『アンナ・マデリーナ』である必要はなく、『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』でもよかったのかもしれない。

この映画でいい部分というのは実際のところ第4楽章の「変奏曲」の部分だけだといってもいい。第3楽章までは長いプロローグというのか、劇中劇を語るための舞台設定といっていいのか、すべてがこの第4楽章を語るための序章であるといっていいと思う。

ポイントはやはりモク・マンイー、それは第3楽章までのモク・マンイーではなく、あくまでガーフの物語の中でのモク・マンイー。映画を見ていない人には何のことやらさっぱりわからないとは思いますが、それでいいんです。見た人にしかわからない、見ていない人に語ってしまうのはもったいない。そんな映画があってもいい。

おそらく、この映画見て何も感じない人もいるでしょう。むしろ感じない人のほうが多いのかもしれない。あるいは感じたとしてもそれを表面化させない人もいるかもしれない。このモク・マンイーが心の琴線に触れる人はおそらくどこかナイーブな心を持っていて、しかもそれでいいと思っている人のような気がします。それをこの映画ではモク・マンイーのいる人といっているわけですが…

映画を作るものにはそのような感性は必要だとは思いますが、果たしてそれをストレートに映画にこめてしまっていいのか、という疑問が湧かないわけではありません。共感したり、理解したりできる人ならいいんですが、共感できない人には共感できない、感情の押し付けということもできるような作品でもある。ということは確かです。

なので、人に勧めることはできませんが、自分の心のナイーブさに何か肯定的なものを感じている人は見るといいかもしれません。

わすれな草

半支煙
2000年,香港,101分
監督:イップ・カムハン
脚本:イップ・カムハン
撮影:ピーター・パウ
音楽:チウ・ツァンヘイ
出演:エリック・ツァン、スー・チー、ニコラス・ツェー、サム・リー

ブラジルから30年ぶりに香港に帰ってきたヒョウ、銃を握り締め変わってしまった街を歩く彼はとある本屋で娼婦の体に触ったといって男にでかいナイフで切りつける若者を目にする。その後、その若者スモーキーがチンピラにからまれているところを助けたヒョウは30年前の復讐のために香港に戻ってきたといい、スモーキーに殺しの手伝いをしないかと持ちかける…

香港の俳優/監督/プロデューサーのエリック・ツァンが若手監督イップ・カムハンと組んだ作品。ウォン・カーウァイを思わせる構成と70年代風の雰囲気がミックスされた感じ。

映画の始まりは外国で、どう見てもメキシコだけど、設定はブラジルということでそういうことにしておきます。

それはさておき、香港に入るとなんともウォン・カーウァイな感じ映像の感じや色彩の感じもそうだし、なんといってもスモーキーが連れている娼婦がウォン・カーウァイの世界のひとである。それでも、全体的にみると70年代の日本映画(ATGあたりの雰囲気)も感じさせるちょっとレトロなイメージになっている。香港映画自体が日本から見るとレトロな感じがするけれど、ウォン・カーウァイはそれを同時代的なものに引き上げたはずだ。

にもかかわらずレトロな感じというのは、戻ってしまったということなのか、と思うけれど、おそらくそのあたりは意識的にやっている気がする。設定からしてベースに70年代があり、主人公のヒョウは70年代を引きずっているのだから、コレはある種の懐古趣味、70年代をリバイバルしようという意図の表れと見ることができるだろう。日本でも清順がリバイバルされるように70年代的な雰囲気が出来上がっていた(この作品の日本での公開は2001年)。

ということで、懐古趣味のように見えて実は同時代的な作品であったということは言える。

スタイルはそのようなことなわけですが、肝心の内容はといえば今ひとつテンポがない。どうしてもウォン・カーウァイと比較してしまうけれど、ウォン・カーウァイの流麗さにかけている。ウォン・カーウァイの流麗さはクリストファー・ドイルのカメラによるところが多いわけだけれど、この映画はそれを欠き、なんとものんべんだらりとした映画になってしまっている。

ラストあたりはなんだか不思議な空間ができていていい感じだけれど、そこまでは謎解きという感じの話の持って行き方をしながら、最後は不思議な感じをだしてごまかしたような観もある。

つまらないわけではないけれど、特に面白いわけでもない。現代的な香港映画としては平均点という感じなのでした。

ドラゴン危機一発

唐山大兄
1971年,香港,100分
監督:ロー・ウェイ
脚本:レイモンド・チョウ
撮影:チェン・チン・チェー
音楽:ジョセフ・クー
出演:ブルース・リー、マリア・イー、ジェームズ・ティエン

 チェンは田舎からいとこたちのいる町に出てきた。いとこたちの紹介で彼らと同じ製氷工場で働くことになる。その初日、チェンのミスで氷が割れてしまい、なかから袋が出てきた。それを目にしたいとこのうち二人が、仕事のあと工場長に呼び出され、そのまま姿を消してしまう…
 ブルース・リーの香港主演第一作。たいした映画ではない、というか基本的にはB級映画で、それをブルース・リーのために作ったという感じ。なので、見所はブルース・リーのアクションと、B級テイストの両方。

 この映画の製作は1971年、実質的にこの映画はTVシリーズの『グリーン・ホーネット』で人気が出たブルース・リーの初主演映画で、ブルース・リーがなくなるのが、1973年だから、ブルース・リーの映画活動というのは実質3年しかないということになる。だからこそ伝説的であるということもいえるけれど、そんな短期間で伝説的なスターとなりえたブルース・リーの原型があるのがこの映画。
 この映画は武術指導もブルース・リーがやっているので、まさにブルース・リーの映画である。ブルース・リーが母親との誓いで喧嘩を封印しているというのも、アクションシーンを引っ張って、そこを盛り上げるための戦略。結局は待ちに待ったブルース・リーのアクションというところにすべてが集約する。そのアクションはもちろんすごく、かなりの迫力だけれど、『燃えよドラゴン』で見せる悲壮感というか、哀愁のようなものはない。これは演出の成果、それともブルース・リー自身の演じ方の違いなのかはわからないけれど、ブルース・リーの味のひとつがう弱められるということはある。
 しかし、そのために純粋なアクションとして楽しめるということもあるし、B級映画として、全体にコメディテイストが含まれているのにもあっていることは言える。
 わたしがこの映画で気に入ったのはむしろこのコメディ的な面で、建物の壁が人型に抜けるところとか、香港映画特有の漫画的なギャグが時々はさまれるのがなかなかいい。
 それはわたしがそれほどブルース・リーに思い入れがあるわけではないからで、ブルース・リー・ファンの人からすれば、むしろそういうコメディ的な部分は邪魔なもので、アクションプロパーのブルース・リーの魅力全開!見たいな映画のほうがいいのかもしれませんが、わたしにはこんな変化球な感じのほうがいい。

燃えよドラゴン

Enter The Dragon
1973年,香港=アメリカ,103分
監督:ロバート・クローズ
脚本:マイケル・オーリン
撮影:ギルバート・ハッブス
音楽:ラロ・シフリン
出演:ブルース・リー、ジョン・サクソン、ジム・ケリー、シー・キエン

 少林寺でも随一の実力を持つリーは師から少林寺の精神を裏切ったハンの話を聞かされ、アメリカの役人からハンの島への潜入操作を依頼される。さらに、自分の妹が命を落とした真実を聞かされ、ハンの島で開かれる武芸トーナメントに参加することに決めた。
 香港で名声を極めたブルース・リーがアメリカンメジャー初の香港ロケ映画に主演。しかし、公開直前に謎の死を遂げてしまった。映画はブルース・リーの死後、約3分間がカットされて公開。現在はその3分間を入れなおしたディレクターズ・カット版が発売されている。

 ブルース・リーがいなければどうしょうもない映画になっていたでしょう。話の筋もよくわからないし、プロットに必然性があまりにもないわけです。ハンが謎の人物ということですべての不合理が片付けられる。鏡の部屋がなぜあるのかは見当もつかない。そんな映画なわけですが、そのすべてをブルースリーのアクションと、筋肉と、目と、眉間の皺で補って余りある。なんといっても、倒れた相手の内臓に蹴り込むシーンの顔のアップ。うーん、こんなに切なく人を殺せる人は映画史上他にいません。
 監督としては(あるいはブルース・リーが)いろいろなメッセージをこめようとして、おそらく監督のほうは、ウィリアムスとローパーにヴェトナム帰りという背景を持たせ、ウィリアムスと警官のいざこざや、その語りでメッセージをこめようとしているのだけれど、それはあけすけ過ぎて今ひとつ伝わってこない。それよりもブルース・リーが自らの体(たとえばやはりあの顔)で語る哲学のようなもののほうが観客の心に伝わってくるわけです。
 だから、どう振り返ってみてもこれはブルース・リーの映画で、パラマウントのブルース・リーをアメリカ映画に取り込もうという作戦は失敗している。確かにブルース・リーは英語をしゃべっているけれど、それは香港を体現するものでしかなく、アメリカ映画にはならない。むしろアメリカ人たちはお客様で香港人による香港の物語となってしまう。
 つまり、ブルース・リーはかっこいい、他に並ぶもののないアクターだということ。この映画はそれが香港だけではなくて、ハリウッドにも通じるのだということを証明しているのだと思います。ブルース・リーの映画で他に面白いものもありますが、ブルース・リーを評価する上ではこの事実を逃すわけには行かないということでしょう。
 余談を2つ。娘のシャノン・リーは1998年に『エンター・ザ・イーグル』という作品に主演しています。しかし邦題は『燃えよイーグル』ではなくて、原題のまま。『燃えよイーグル』にしたらヒットしたかもしれないのに。
 あとは、最初にブルース・リーと組み手をしているのはどう見てもサモ・ハン・キン・ポー。ちょっとやせていますが、やはり身軽でバック転を軽々としているので確かでしょう。

少林サッカー

少林足球
2001年,香港,112分
監督:チャウ・シンチー、リー・リクチー
脚本:チャウ・シンチー、ツァング・カンチョング
撮影:クウェン・パクヒュエン、クォン・ティンウー
音楽:レイモンド・ウォン
出演:チャウ・シンチー、ン・マンタ、ヴィッキー・チャオ、カレン・モク

 「黄金右脚」といわれる名プレイヤーだったファンはチームメイトのハンが持ちかけた八百長に乗ってしまい、PKをはずして観客に襲われ右脚を折られてしまった。20年後、ファンは変わってスターとなったハンの下で働いていた。 そんなハンが街で少林寺拳法の普及を夢見るシンとである。最初はバカにしていたハンだったが、彼のキックが並々ならぬものであることに気づく…
 香港の喜劇王チャウ・シンチーが監督主演したアクション・コメディ。ワイヤー・アクションはバリバリ、ネタはベタベタ。

 映画は面白ければいい。ということをこれだけあっけらかんと示されると気持ちがいい。いろいろ言えば、いろいろ言える。しかし、あまり何も言わないほうが面白い。と言いつつ言わねばならないのですが。
 さて、なんといっても目につくのはワイヤー・アクションとCGですね。どちらもどうでもいいところに多用されているのがいい。これはまさに過剰なことが笑いを生むものなわけですが、すべてを笑いに持っていこうというベタベタな精神はちょっと残念です。コメディ映画だからしょうがないし、このままでも十分腹がよじれるほど面白いのですが、もしやっている本人たちはいたって真面目ということが画面に現れつつも、その果てしない過剰さで見ている者を笑わせずにはいないというものが作れれば、それはもう内臓が噴出すほど面白いものになったのではと思います。
 こんなことを真面目につらつらと書いていても仕方ないので、楽しい気分で行きましょう。オープニングのアニメーションは正統派でかっこいいのですが、その前のカンパニー・クレジットからしてパロディです。しかも脈略とは全く関係ありません。パロディといえば、この映画はたくさんのパロディが含まれていますね。踊ったり、ドラゴンだったり、いろいろです。キーパーの人はブルース・リーにそっくりですが、ユニフォームがそろったときにキーパーの服を見て誰かが「それ、かっこいいなあ。交換しようぜ」などといっているのもかなりのもの。このブルース・リー関係ではかなりいろいろなネタがあると思うのですが、ブルース・リーファンというわけではないわたしはたくさん見逃している気がします。 チャウ・シンチーさんは拳法とかやっていたんでしょうかね。それとも香港人にしてみるとこれくらいのことは常識なのか。少林拳とか崋山派とか太極拳とかいろいろ出てきます。そのあたりの違いは今ひとつわかりませんが、面白いからいいか。結局全部それ。
 あまり面白さが伝わっていない気がしますね。まあ、でもこの面白さを文章で伝えるのは無理というもの。
 この映画は熱狂的なファンが多く生まれ、DVDなども企画もののボックスなどが発売されました。そこまでマニアではなくてもチェックしたいのが、字幕版と吹き替え版の違い。セリフの長さが違うので、内容が微妙に変わってくるのはどの映画でも同じですが、この映画の場合、字幕版と吹き替え版でギャグがかなり違います。だから両方見れば、ギャグの量は2倍とは言わないまでも1.2倍くらいにはなるのです。さらに、日本版・香港版・インターナショナル版と3バージョンあるらしいので、それも見比べてみるといろいろと発見があるかもしれません。
 字幕と吹替えの間が開いてしまったので、どこが変わったということはわかりませんが、歌なんかはもちろん日本語になっていたりして、山寺宏一さんの吹替えは適度に音痴でなかなかよかったです。歌のシーンのみんなで踊るのは、なんとなく『ブルース・ブラザーズ』のパロディっぽい気がします。踊りもソウルな感じで、それも安っぽいパパイヤ鈴木的ソウルな感じ。このシーンも結構好きです。

 最後に、こらえられないネタひとつ(字幕にも吹替えにも登場)
 「地球は危ない。火星に戻れ」
 ぷぷぷぷぷ

花様年華

花様年華
2000年,香港,98分
監督:ウォン・カーウァイ
脚本:ウォン・カーウァイ
撮影:クリストファー・ドイル、リー・ピンビン
音楽:ミカ・ギャロッソ、梅林茂
出演:トニー・レオン、マギー・チャン

 1962年、香港。新聞社に勤めるチャウは貸し部屋を訪ねるが、一歩の差で借りられてしまう。それでも隣に部屋を借りたチャウ夫妻は隣のチャン夫妻と同じ日に引っ越した。ともに仕事に忙しい二つの家の夫婦だったが、チャウはある日妻がチャンの夫と浮気していることに気づく。
 若者向けのスタイリッシュな映画を撮ってきたカーウァイが一転、落ち着いた大人のドラマを撮った。しかし基本的なスタンスは一緒かもしれない。

 ウォン・カーウァイは他の映画と違うというところに価値を置いているような気がする。クリストファー・ドイルのカメラに助けられて『恋する惑星』などなどのヒット作を撮っていたころ、その映像のスピード感は他の映画では見たことのないものだった。しかし、ヒットすれば似たような映画が続々登場するのは映画業界の必然。香港にとどまらず、日本でもアメリカでも似たような映画が続々登場した。
 カーウァイはこの映画でそれに抵抗し、限りなく「遅い」映画を撮る。異常なほどに含まされた「間」。シーンとシーンの間に挟まれる黒い画面、台詞のない長い長いシーン、さらには多用されるスローモーション。執拗なまでにスローダウンさせられた映画。それがこの映画だと思う。もちろん映画を遅くすれば、描ける物語は少なくなる。しかし一定の時間に限ってみればその描写は濃くなっていく。だからこの映画は全体にじっとりとしていて、いろいろなことがそこから染み出てくるのだけれど、あまりに「間」が長すぎてついつい寝入ってしまうというのもある。
 それでも、唐突に時間がジャンプするところがあったりして、その間や、言葉にならないしぐさや表情を見る側に読み取らせようとする意図が感じられもする。しかし、実際のところ、カーウァイが求めるのはただ映像と音に浸ることだろう。ついつい物語を追ってしまうと苛立ちを感じたりするけれど、ただただ映画に浸っていればなかなか気持ちいい映画だと思う。
 ただひとつ気に入らなかったのは、舞台を過去にしてしまったこと。過去を舞台にし、いわゆる中国的なものを香港に当てはめる。そのいわゆる中国的なものを道具化してしまったカーウァイは最後に「過去は想うのみ」ということでその矛盾を顕わにしてしまう。
 あるいは映画に描いた中国的なものなどはすでにアンコールワットと同じく遺跡でしかないといいたかったのだろうか。

男達の挽歌

英雄本色
1986年,香港,95分
監督:ジョン・ウー
脚本:ジョン・ウー
撮影:ウォン・ウィハン
音楽:ジョセフ・クー
出演:チョウ・ユンファ、ティ・ロンレス、リー・チャン、エミリー・チョウ

 偽札製造と麻薬取引を生業とする香港マフィアの幹部のひとりロンは弟のチャンが警官になることを決めたことで、足を洗おうと決意する。そしてロンは親友で弟分のユンファを置いて、最後の仕事を済ませるために台湾へと旅立った…
 いまやハリウッドでも大物となったジョン・ウーの初期の傑作。「香港ノワール」と呼ばれるジャンルの先駆け伴った作品で、香港=カンフーという概念をつき崩した記念碑的作品。

 今から見ればやはり15年前の作品で、なつかしさすら漂います。もちろん、スローモーションの使い方など当時は相当斬新であっただろうことは、今ある幾多のアクションに引けを取らない迫力からも容易に想像できます。しかし、そこは日進月歩のアクション業界。なかなか今も手に汗握って見られるかと、それはなかなか難しいのではなかろうかと思いました。
 しかし、チョウ・ユンファの咥えマッチとレスリー・チャンの甘いマスクは今だからこそいっそう味わい深いのかもしれない。そして人間ドラマとしても濃い。そのあたりにジョン・ウーがブレイクしていった背景が見えるとも思います。
 それにしてもやはり、アクション映画には鮮度が重要なのだと改めて思わされました。これだけの映画でも15年経つと、こんなものかと思ってしまう。それはこの映画の影響力の強さゆえだとはわかっていても、そう感じてしまうもの。それが鮮度ということでしょう。

花火降る夏

去年煙火特別多 
The Longest Summer
1998年,香港,128分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、ケネス・ビー
出演:トニー・ホー、サム・リー、チャン・サン、ジョー・クーク

 1997年、香港返還をまえに香港の英国軍部隊が解散した。そのひとりであったガーインも仕事を失い、仲間とぶらぶらするしかなかった。ガーインの両親はヤクザの子分をしている弟のシュンに仕事を世話してもらえという。最初は抵抗していたガーインだったが結局はヤクザのボスの運転手をすることにした。
 香港返還をまえにして香港の人々がどう生きていたのかを描くフルーツ・チャンの香港返還三部作の2作目。

 映画の最初の方から映像がとてもいい。いきなり、口に穴があいている少年が登場するというのもとてもいいし、そのあとガーインが登場してからも独特の構成美というか、不思議な感じの映像がいい。なんというか、非日常的な空間というか、普段はなかなか見れないものや視点を使うことはそれだけで映画を興味深いものにする。映画にはそういう魔術的な視線(マジカル・ビュー)を提供する一面があり、それが特撮やCGという工夫を生んできたと思います。この映画の場合は、(顔に穴は別にして)特別特殊な方法をとっているわけではないものの、路面電車の架線など、普段は注目しないような視点でものが語られている。そういう、日常生活では見慣れない視点が取り入れられているというのは映画を面白くひとつの要素なのだと実感しました。
 と、言ってもただそういう映像を流しているだけで言い訳もなく、それを効果的に、プロットに対する興味をかきたてるように配置されていることが重要で、「口に穴」はそんな典型的な例である。こういう効果的な映像が冒頭にあるだけで、映画にぐっと引き込まれる。
 そのプロットはというと、それほど格別にスリリングというわけではないが、人と人との関係性が興味深く、展開力がある。加えてガーインの「心」の展開がとても気になる。無表情で何を考えているのかわからないガーインがどのような心を抱えて行動しているのか? それは物語の終盤で一気にわかってくる。それを明かすことはしないけれど、その無表情な彼の抱える心の重みはそこに至る映画の全般に顕れている。その骨太な感じは映画を見ている時点でかなりよかったのだけれど、最後たたみかけるようにガーインの心の中が明らかになるとそれは圧倒的な力を持って迫ってきた。どんなふうにかは言いませんがね。
 もちろんガーイン単独ではなくて、他の“マッチ棒”たちとの関係性も興味深いものがあります。すれ違ったり、出会ったりしたときの一瞬の表情に表れる心のかけらがとてもうまく表現されていると思いました。
 フルーツ・チャンを見るならまずこれだ! と声高に言いましょう。

メイド・イン・ホンコン

香港製造
1997年,香港,108分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:オー・シンプイ、ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン
出演:サム・リー、ネイキー・イム、ウェンバース・リー、エミィ・タン

 1997年、返還目前の香港の下町に母と2人で住む少年チャウ、学校にも行かず、悪がき仲間とバスケをし、少し頭のトロイ子分ロンと借金取り立ての手伝いをしている。ある日、借金を取り立てに行った家出であった娘ペンはなぜかチャウに好意をもち、次第に3人出会うようになった…
 香港を代表する若手監督の一人フルーツ・チャンの長編デビュー作。そのスタイリッシュな映像から第二のウォン・カーウァイとも言われた作品。

 オープニングから序盤いまひとつしっくり行かなかったのはフルーツ・チャン独特のリズムのせいだろう。ばっさりと切れて終わる断章の長さと、断章と断章の間のジャンプのアンバランス。このリズムがどうも体になじまない。
 しかし、途中のひとつのシーンでグット映画につかまれた。それはチャウが包丁を握ってトイレに入ったときに、別の少年が小便をする中年の男の腕をばっさりと(これも包丁で)切り落とす場面。このグロテスクな一瞬をさらりと見せたこのシーンにはっとする。このシーンは画面にインパクトがあるだけではなく、物語の展開にも主人公の気持ちにも大きなインパクトを与える。この大胆な転換点を大胆な映像で描ききったところがすごい。
 これですっかり映画になじみ、リズムにもなじみ、最後までつらつらと行くと、ラストまえのシークエンスにまた見せられる。ポケベルの呼び出しの声と氾濫する映像。フルーツ・チャンがウォン・カーウァイになぞらえられたのは、このあたりの映像のスタイリッシュさゆえだろう。しかしウォン・カーウァイの映像の独特さが主にクリストファー・ドイルのカメラワークによっていたのに対し、フルーツ・チャンのそれは編集のリズムによっていると思う。ひとつひとつの映像はそれほど新奇なものではないけれど、ここでも独特のリズムが存在し、それが新しさを感じさせるのだろう。この場面ではフラッシュバックとして一瞬挟まれる映像が非常に効果的で、そのフラッシュバックを見ることによって観衆が思い出させられるシーンの重なり合いが、観客の頭の中にさらに複雑な映像世界を作り出させているような気がした。フラッシュバックを見ることによって頭の中に蓄えられていた映像がどばっと出てくる感じ。そんな感じでした。

リトル・チュン

細路祥
1999年,香港,115分
監督:フルーツ・チャン
脚本:フルーツ・チャン
撮影:ラム・ワーチュン
音楽:ラム・ワーチュン、チュ・ヒンチョン
出演:ユイ・ユエミン、ワク・ワイファン、ゲイリー・ライ

 中国に返還される直前の香港、街の一角にある料理屋の息子チュンは香港の人気歌手ブラザー・チュンと同じ名前であることからリトル・チュンと呼ばれていた。父の商売や母の賭け事を子供の頃から見ていたチュンは少年ながらにお金儲けのことを考えていた。そんな中の店にある日、働きたいとファンという少女が訪ねてきた。「子供は雇えない」とチュンの父は追い返すが、チュンはその子に興味を持った。
 フルーツ・チャンの香港返還三部作の3作目、子供の視点から香港という街の多様性や活気、返還が持つ意味などを描いている。

 全体の印象としては、断片ごとのクオリティは高いけれど、まとまりがいまいちというところでしょうか。話にいろいろな焦点があって、話が散漫になりすぎた感があります。おばあちゃんとブラザー・チュンの話とか、ファンの話とか、デヴィッド兄弟の話とか、どれも面白そうな話なのに、なんだか中途半端で終わってしまっている。しかし、1本に話を絞ってしまうのもまた面白くなくなってしまうような気がするので、なかなか難しいところ。すべてをぐんぐん掘り下げて、4時間くらいの映画にしてくれていたら個人的にはうれしいですが…
 話の散漫さというのはリズムの悪さでもあると思う。先の展開への興味をかきたてながら次へ次へと進んでいくというリズムがこの映画にはないのではないかと。ひとつのまとまりがあったら、そこで一度終わって次のまとまりが始まる。それが単調なリズムで連なっていく。そうなるとそのひとつひとつがうまくまとまっていても飽きずに見るのは難しい。注意深く、ひとつひとつのシーンを吟味してみれば面白いところも見出せるのですが、ずうっと集中してみるというのはなかなか大変ですからね。
 でもこの映画もバイオリズムがあえば面白く見れると思うんですよね。映画は一期一会、見る環境や体調で違って見えてくるもの。私が退屈してしまったのはバイオリズムがあっていなかったせいかもしれない。もう一度見れば違う風に見えてきそうな映画ではあります。