ミリオン・ダラーホテル

The Million Doller Hotel
2000年,アメリカ,122分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原案:ボノ
脚本:ニコラス・クライン
撮影:フェドン・パパマイケル
音楽:ボノジョン・ハッセル、ダニエル・ライワ、ブライアン・イーノ
出演:ジェレミー・デイヴィス、ミラ・ジョヴォヴィッチ、メル・ギブソン、ピーター・ストーメア、アマンダ・プラマー

 ロサンゼルスのダウンタウンに立つおんぼろホテル「ミリオンダラー・ホテル」。その屋上から飛び降りるトムトムは振り返る。2週間前、エロイーズに恋をしたことから人生は変わったと。そのホテルは奇妙な人ばかりが暮らすただの安ホテルだった。しかし、2週間前、トムトムの親友イジーが屋根から飛び降りたことでFBI捜査官がやってきて、住人たちはその事件に巻き込まれていった。
U2のボノがプロデュースし、ヴェンダースが監督。ロードムーヴィの巨匠からさまざまな方向性を試みたヴェンダースが1件のホテルの中のみに舞台を限定して描いた不思議なドラマ。

 やはりヴェンダースはすごいと思う。ロード・ムーヴィーを捨て、世間の酷評にもまけず、「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」で復活を遂げたヴェンダース。しかし、「ブエナ・ビスタ」はヴェンダースファンにはとても満足のいく作品ではなかったはずだ。そこにはヴェンダースらしさは存在せず、ライ・クーダーの作品を職人的にこなす姿しかなかった。私が望んでいたのは、「夢のはてまでも」のような煮え切らないヴェンダースらしさであって、あんな爽やかな語り部としてのヴェンダースではなかった。
 ヴェンダースがすごいのは、そんな「ブエナ・ビスタ」のヒットから一転、再びらしさを取り戻し、煮え切らない空間をそこにつむぎだしたこと。ボノのプロデュースという話を聞いて、「ブエナ・ビスタ」の二の舞かと心配したが、逆にヴェンダースはすべてのヴェンダース像を覆すような作品を作り出した。ロードムーヴィーとも違う、ドキュメンタリーとも違う、「ベルリン天使の詩」とも違う、そんな作品。これこそが私が望んでいたヴェンダースらしさなのだ。見ているものすべての期待を裏切り、映画であることを拒否するような姿勢。その姿勢こそがヴェンダースらしさだと私は思う。
 この映画は観客を拒否し続ける。そもそもの主人公たちがもれなくわれわれの理解の範囲を超えた存在である。トムトム、エロイーズ、捜査官さえもいったい何をしようとしているのか、何をしてきたのかわからない。そしてその一部(あるいは大部分)は明らかにされることがないまま終わる。しかし彼らは間違いなく「普通」とされる人々より魅力的で人間的である。
 どうも感想がうまく言葉にできないのですが、おそらく世の人々には受け入れられないであろうこの映画が実は歴史に残る名作かもしれないと言いたい。ヴェンダースはわれわれがまったく想像もしないものを作り出した。われわれの想像もしないことを作り出す、意表をつく、期待を裏切るということこそがヴェンダース映画の本質であり、この映画はそれを凝縮したようなものであると。「さすらい」の中で一番私の印象に残ったのは冒頭の、車が川に転落するシーンだった。
ロードムーヴィーとして有名な作品にもかかわらず、道行の途中のイヴェントではなく、旅に出る前の単純なひとつの意表をつく出来事が一番印象に残っている。これがヴェンダースだと私は思う。だから観客の意表をつきつづけるこの作品こそこの映画はまさにヴェンダースらしい作品であり、われわれの想像を超えたすごい作品だといいたいのです。

緋文字

Der Scharlachirote Buchstabe
1972年,西ドイツ=スペイン,90分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ナサニエル・ホーソン
脚本:ヴィム・ヴェンダース、ベルナルド・フェルナンデス
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クナイパー
出演:センタ・バーガー、ハンス・クリスチャン・ブレヒ、イエラ・ロットランダー、アンヘル・アルバレス

 開拓期のアメリカ、原住民のガイドを連れ、セイラムという町を探してやってきたロジャーは街に着くなり、教会の前で裁判が開かれているのを目にする。その裁判はへスター・プリンの姦通の罪を裁き、相手を白状させようとする裁判だった。裁判中のへスターに近づき、意味ありげにヘスターに目配せをするロジャー、そのとき牧師が急に倒れた。
 ホーソンの緋文字をヴェンダースが映画化。ヴェンダースとしては最初で(今のところ)最後の歴史もの。違和感はあるがそれでも舞台にアメリカを選ぶあたりはヴェンダースらしさか。

 ヴェンダースの退屈さが、マイナスの方に働いてしまったかもしれない。映画自体は紛れもなくヴェンダース。回り道をしながら映像美を足がかりにゆるゆると進んでいくヴェンダースらしさ。映像美と単純に言い尽くせない映像の味をこの映画でもしっかりとこめている。
 この映画が撮られたのは「都会のアリス」から始まるロードムーヴィー3部作(って勝手に呼んでる)の直前。「ゴールキーパーの不安」で評価を得た直後に撮られている。こう考えていくとこの映画がヴェンダースの自由な意思によって撮られたのかということに疑問を感じてしまう。ヴェンダースという監督は結構人に頼まれた仕事をほいほいこなす監督のようで、最近の「ブエナ・ビスタ」しかり、「リスボン物語」しかりである。
 で、この映画がたとえ何らかの商業的な意図のものに作られたものであってもそれがそのまま映画としての価値をうんぬんということにはならないのだけれど、なんとなくこの映画には不自由な感じがしたので、そのようなうがった見方をしてしまうわけです。
 でももしかしたら、何度か見たら好きになっていくような気もする映画なんですね。最近のヴェンダースのパッとみのよさとは違う、退屈なんだけれどなんだかひきつけられる力のようなものがある気がする。「まわり道」あたりが生まれる要素になるようなものが。やはりそれは私がヴェンダースファンだからなのかしら。

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ

Buena Vista Social Club
1999年,ドイツ=フランス=アメリカ=キューバ,105分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、リサ・リンスラー、ボルグ・ヴィドマー
音楽:ライ・クーダー
出演:イブラヒム・フェレール、コンパイ・セグンド、エリアデス・オチョ、アライ・クーダー

 1997年、ライ・クーダーがキューバの老演奏家たちに惚れ込んで作成したアルバム「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」は世界中でヒットし、グラミー賞も獲得した。98年、ライ・クーダーはヴェンダースとともに、再びキューバを訪れた。そこで撮った、老演奏家たちのインタビュー、アムステルダムでのライヴの模様、NYカーネギー・ホールでのライヴの模様を収めた半ドキュメンタリー映画。
 これは決してドキュメンタリーではない。一言で言ってしまえば、ライ・クーダーのプロデュースによる、アフロ・キューバン・オールスターズの長編ミュージックビデオ。

 この映画を見て真っ先に思ったのは、これは映画なのか?ドキュメンタリーなのか?ということ。それは、映画orドキュメンタリー?という疑問ではなくて、映画なのか、そうでないのか? ドキュメンタリーなのか、そうでないのか? という二つの疑問。答えは、ともにノー。これは映画でもドキュメンタリーでもない。無理やりカテゴライズするならばミュージックビデオ。ドキュメンタリー映像を取り入れ、映画的手法をふんだんに使ったミュージックビデオ。もちろん、ライヴの場面は実際の映像で、そこだけを取り上げればドキュメンタリーということになるのだけれど、インタビューの部分は決してドキュメンタリーではない。それはやらせという意味ではなく、映画的演出が存分にされているということ。一番顕著なのは、トランペッターの(オマーラ・ポルトゥオンドだったかな?)インタビューに映るところ。前のインタビューをしている隣の部屋に彼はいるのだけれど、彼のところにインタビューが映る瞬間(カットを切らずに、横にパンしてフレームを変える)彼は唐突に演奏をはじめる。しかも部屋の真中に直立不動で。これは明らかに映画的演出。
 もうひとつは、撮り方。この映画で多用されたのが、被写体を中心にして、カメラがその周りを回るという方法。言葉で説明しても伝わりにくいかもしれないけれど、要するに、メリー・ゴー・ラウンドに乗って、カメラを持って、真中にいる人を移している感じ。この撮り方が演奏やレコーディングの場面で多用されていた。これは映像に動きをつけ、音楽とうまくマッチさせる手法ということができる。これはミュージック・ミデオでも見たことがあるような気がするが、この映画では非常に効果的に使われていた。
 何のかのと言っても、結局はおっちゃんたちがかっこいい。ライ・クーダーが惚れたのもよくわかる。一応、映画評なのでごたくを並べただけです。かっこいいよおっちゃん。

東京画

Tokyo-ga
1985年,西ドイツ=アメリカ,93分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:エド・ラッハマン
音楽:ローリー・ベッチガンド、ミーシュ・マルセー、チコ・ロイ・オルテガ
出演:笠智衆、厚田雄春、ヴェルナー・ヘルツォーク

 小津安二郎ファンであるヴィム・ヴェンダースが小津へのオマージュとして作った作品。笠智衆や小津作品の撮影監督である厚田雄春を訪ねながら東京を旅する、ヴェンダースの旅日記風ドキュメンタリー。
 小津の「東京物語」のなかの30年代の東京と、現在(80年代)の東京を対照させて描く。パチンコ屋や夜の新宿など私たちには馴染み深い風景がでてくる。素晴らしいのはヴェンダースのモノローグ。この映画、実は東京を背景画にしたヴェンダースの独り言かもしれない。 

 現代の東京と小津の東京を比べて、「失われたもの」を嘆くのを見ると我々は「またか」と思う。ノスタルジーあるいはオリエンタリズム。文化的なコロニアリズムを発揮した西洋人たちが、自らが破壊した文化の喪失を嘆くノスタルジーあるいはオリエンタリズム。ヴェンダースでもそのような視点から逃れられないのか!と憤りを感じる。
 しかし、ヴェンダースはそのようなことは忘れて(自己批判的に排除したわけではない)、もっと自分のみにひきつけて「東京」を語ってゆく。二人の日本人へのインタビュー、モノローグ。ヴェンダースのモノローグは文学的で面白い。完全にブラックアウトの画面でモノローグというところもあった。字幕で見ると、それほどショッキングではないけれど、まったくの黒い画面で言葉だけ流れるというのはかなりショッキングであるはずだ。このたびはヴェンダースの自身と映画を見つめなおすたびだったのだろう。ヴェンダースがもっとも映画的と評する小津の手法に習いながら、映画的ではないドキュメンタリーを撮る。それが面白くなってしまうのだから、さすがはヴェンダース。 

さすらい

Im Lauf Der Zeit
1975年,西ドイツ,176分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー、マルチン・シェイファー
音楽:インプルーブド・サウンド
出演:リュティガー・フォグラー、ハンス・ツィッシュラー、リサ・クロイウァー、ルドルフ・シュントラー

 映画館を巡回して、映写機を修理し、フィルムを貸して回る男ブルーノ(リュディガー・フォグラー)がある朝トラックでひげを剃っていると、目の前をものすごい速度で飛ばすビートルが通り過ぎ、川に突っ込んで沈んでいった。その車から現れた男ロベルト(ハンス・ツィッシュラー)は妻と別れて放浪生活をしていた。二人はほとんど言葉を交わすこともなく一緒に旅をはじめる。
 ロードムーヴィー三部作の三作目とされるこの作品はヴェンダースのロードムーヴィーの一つの到達点を示しているのかもしれない。もともと精緻なシナリオがなく撮りはじめたため、まさに旅をしながら物語が生まれてくるという感じになったのだろう。二人の男の人物設定が会って、その二人が旅をするとどのような関係が生まれていくのか?それを決してドラマチックに使用などと考えずに淡々と描いてゆくリアルな物語はまさしくロードムーヴィというにふさわしい。
 この映画で目を引くのは、動いてゆく風景。単に背景としてではなく、ミラーに映ったり、フロントガラスに映り込んだりとあらゆるところに背景が入り込み、それが過ぎ去ってゆく。 

 この映画のこの二人の男は決して前には進まない。いつも進んではいるのだけれど、彼らの旅は何かに向って進む旅ではない。それを象徴するのは最初と最後の移動の場面。最初の移動の場面。トラックに乗り込んだ二人をカメラは脇の窓から捕らえる(はず)。その反対側の窓の向こうにあるバックミラーは過ぎ去ってゆく土地をえんえんと映している(この場面はかなり不思議で、人物にも、窓の外の風景にも、バックミラーの風景にもピントが合っている)。最後の移動の場面、電車に乗り込んだロベルトは進行方向と逆に向かって座る。彼から見えるのは過ぎ去ってゆく景色だけだ。こうして二人の男は前には進まず、停滞し、時だけが流れ去る。彼らのそのような行動が何を意味しているのかを語ることをこの映画は巧みに避ける。彼らは最後、国境の米軍の東屋でわずかながら考えをぶつけ合うけれども、それがゆえに二人はわかれ、別々の方向へと進み始める。
 やっぱりこの作品も語るのは難しかった。黒沢清がどこかで言っていたけれど、ヴェンダースの映画(80年代以前)は「お話がどうも確実にあるようなんだが、それをひとことで言えといわれるとそう簡単には言えないような映画」なのだろう。だからどう書いていいのかわからない。みればわかる、みればわかる。と繰り返すだけ。
 本当にみればわかる。この映画、個人的にはヴェンダース作品の中でいちばん好きかもしれない。 

時の翼にのって/ファラウェイ・ソー・クロース

Faraway, So Close !
1993年,ドイツ,147分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ヴェム・ヴェンダース、ウルリヒ・ツィーガー、クヒアルト・ライヒンガー
撮影:ユルゲン・ユルゲス
音楽:ローラン・プティガン
出演:オットー・ザンダー、ピーター・フォーク、ナスターシャ・キンスキー、ホルスト・ブッフホルツ、ブルーノ・ガンツ

 『ベルリン・天使の詩』の続編。前作で人間になった親友ダミエルを見守る天使ミカエルは東西統一がなされたベルリンの街を眺めながら、自分もまた人間世界にあこがれ始めていることに気づく。そして、ついにバルコニーから落ちた少女を助けたことによって(人間界への介入)、人間界へと落とされたミカエルの冒険が始まる。
 前作の恋愛物語とは一転、堕天使ニミットを登場させることで活劇的な内容になっている。前作のロマンティックさと比べると、よりリアルに人間世界を描いたということか。ヴェンダースにとっての大きな転換点といえる『夢の涯てまでも』につづいて作られた作品だけに、それ以前のものとは大きく様子をことにし、ヴェンダースの新たな方向性の模索が感じられる。 

 カシエルはダミエルのように明確な目標を持って人間界へとやってきたわけではなかった。それがカシエルの何かが欠落しているという印象を作り、堕天使ニミットに付け入る隙を与えてしまうのだろう。しかし、果たしてこのことはどのような意味を持っているのか?明確なドラマを欠いた主人公カシエルは、しかし表面的には前作よりドラマティックな展開に引き込まれてゆく。『ベルリン・天使の詩』は明確なドラマを持っているという点で80年代以前のヴェンダース作品の中で異彩を放っているのだけれど、それと比べてもこの『時の翼にのって』は違ったスタイルの物語だ。
 この変化を理解するのは難しい。ヴェンダースは『夢の涯てまでも』以降、大きく作風を変えていくわけだけれど、その変化の方向性がまだ見えてこないという感じがする。『夢の涯てまでも』でロード・ムーヴィーにある意味で別れを告げたヴェンダースがいったいどこへ向っているのか、この作品は明らかにしてはくれない。『愛のめぐりあい』をはさんで『リスボン物語』にいたり、ロードムーヴィーに回帰しているように見えるヴェンダースだが、果たしてそうなのか?この作品は「とまった」ヴェンダースが何を語ろうとしているのかを示唆する作品であることは確かだが、何を語ろうとしているのかを理解することは難しい。カオスか?人間か?アメリカか? 

まわり道

Falsche Bewegung
1974年,西ドイツ,100分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ペーター・ハントケ
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:リュディガー・フォグラー、ハンナ・シグラ、ナスターシャ・キンスキー、H・C・ブレッヒ

 我々は冒頭の街の俯瞰ショットで期待に胸を膨らませる。そして、主人公のヴィルヘルムが拳で部屋の窓ガラスを割るシーンにハッとする。苛立ちと不満感にさいなまれる小説家志望のヴィルヘルムは母に勧められるまま旅に出る。ドイツを縦断するように旅する彼は何かを見つけ出すことができたのだろうか?
 ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を底本として書かれたペーター・ハントケの小説の映画化。ヴェンダースのロード・ムーヴィー三部作の2作目に位置付けられる。希望に満ちた若者の旅というよりは、寂寥感や静謐さを感じさせる。これが映画デビュー作のナスターシャ・キンスキーも強い印象を残す。 

 この作品は「ゴールキーパーの不安」と似通ったところが多い。物語の転換のきっかけとして「死」があること。「ゴールキーパー」ではそれが殺人であり、「まわり道」では自殺であるという違いはあるものの、そこで物語が固着するという点は同じだ。そしてヴェンダースが本当に描きたかったのはそれらの「死」の後の話だという点も。単調で退屈に見える、「動き」を奪われてしまったその後の展開は、結局何も始まりも終わりもしなかったたびを象徴するものとしてそこにある。ヴィルヘルムは、最後には山の頂きに立ちはするが、何も生み出さず、何も得られず、何も見つけられなかった。
 ただ、これはヴェンダースが何かを否定していることは意味しない。ヴェンダースはただこれを提示しただけ。ひとつの物語として我々に示しただけだ。彼が私たちに見せたかったのは、「世界」であって教訓ではない。
 この作品が「ゴールキーパー」と違うのは主人公のモノローグ。「ゴールキーパー」では主人公に同化しにくいが、この「まわり道」では我々は主人公の視点でものを見させられる。主人公がモノローグを語りだすと見る側は、彼を観察することをやめ、自分がそのモノローグを語っているかのように錯覚し始める。そして主人公の視点に立ち始めるのだ。
 個人的にはそのように主人公の視点に捉えられてしまうことは非常に居心地が悪かったが、「むなしさ」を強く感じることができたことも確かだ。一般的に言えば感動を誘うはずのラストシーンの雄大な山の景色も、ただ白々しいだけのものに見えた。それは私がある程度ヴィルヘルムの気分を共有していたからだろう。物語の後半が退屈に感じられるのも、ヴィルヘルムもまた退屈しているからだろう。映画が退屈であるというこの事実にヴェンダースの力量を感じた。 

ゴールキーパーの不安

Die Angst des Tormanns Bein Elfmerter
1971年,西ドイツ,101分
監督:ヴィム・ヴェンダース
原作:ペーター・ハントケ
脚本:ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ユルゲン・クニーパー
出演:アルトゥール・ブラウス、カイ・フィッシャー、エリカ・プルハール、リプガルト・シュヴァルツ

 プロのゴールキーパーのヨーゼフは試合中に審判に暴言を吐き退場処分に。スタジアムから出た彼は街をさまよい、安ホテルに宿を取って目的もなく街をぶらぶらと歩く。そして映画館の受付譲と仲良くなって、彼女の家で一夜をともにしたが…
 この作品は長編としては2作目だが、すでにヴェンダースのスタイルが確立されている。ロビー・ミューラーのカメラは色彩の鮮やかさこそまだ発揮されていないが、構図の作り方は秀逸、クローズアップでの切り返しも鮮やか。ヴェンダースの特徴のひとつである画面のフェイドアウトも効果的に使われている。 

 「不安」という言葉がこの作品をまとめている。この作品は、最終終的にどこかへ向うわけでも、何かが解決するわけでもないことが多いヴェンダースの作品の中でも特に行き先の見えない話だ。ヨーゼフがなぜそれぞれの行動をとったのかはまったく説明されないまま、そしてヨーゼフがいったい何を考えているのかも示唆されないまま、物語は淡々と進んでゆく。主人公への没入を拒否する姿勢。映画に対して第三者でい続けさせられる不安感。観客はその不安感を抱きながら、ヨーゼフの不安を見つめる。この微妙な関係性を作り出すのがヴェンダースの力量なのだろう。観客が安易に主人公に同調して物語世界に入り込んでしまわないように、しかし映画の世界には惹きつけられるようにするという微妙な作業。そのための緻密な計算がこった映像を作らせるのだと感じた。
 この作品は長編第2作目だけあって、その緊張感が緩む場面がたびたびあったが、それによってむしろヴェンダースのやらんとしていることを感じ取れたような気がする。いまだ完成されていないスタイルの魅力にあふれた一作。 

パリ、テキサス

Paris, Texas 
1984年,西ドイツ=フランス,146分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:サム・シェパード、L・M・キット・カーソン
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:ライ・クーダー
出演:ハリー・ディーン・スタントン、ナスターシャ・キンスキー、ハンター・カーソン、ディーン・ストックウェル、オーロール・クレマン

 テキサス、砂漠をさまよう男がバーで倒れ、病院に担ぎ込まれる。しかし、男は黙ったまま。男の持っていた名刺からわかったロサンゼルスに住む弟が駆けつける。弟のウォルトは4年間音信不通だった兄トラヴィスをとりあえずロサンゼルスへと連れて行くのだが…
 ロビー・ミューラーの映像は相変わらず研ぎ澄まされており、プロットの作り方も申し分ない。2時間半という長さもまったく苦にならない。ライ・クーダーの音楽が加わることで、画像からなんともいえない哀愁が漂う。
 映画史上最高のロード・ムーヴィーと私は呼びたい。何度見ても飽きません。

 この映画はヴェンダースの積み上げてきた美しい映像世界に、いい脚本が乗っかって成立した。サム・シェパードといえば、「赤ちゃんはトップレディがお好き」とか「マグノリアの花たち」とか、最近では「ヒマラヤ杉に降る雪」などで知られる脚本家。彼にシナリオによって、今まで単調すぎるきらいがあったヴェンダース作品にかなりのアクセントが加わったと言えるだろう。個人的にはヴェンダースの淡々とした作風は好きだが、この作品に限って言えば、シナリオと映像は非常に幸せな出会いをしたといえるだろう。
 映像のほうに話を移すと、ロビー・ミューラーの映像は特に色彩感覚において秀逸なものがある。ローアングルで車の中から見える青空とか、そう、この作品では「空」が非常に美しかった。青空、夕焼け、くもり空、重い雲と明るい空とが微妙に混ざり合った空などなど。あとは、やはりロードムーヴィーだけあって、車の映し方。いちばん面白かったのはトラヴィスとハンターがジェーンの車を追って駐車場に入る場面、赤いジェーンの車が入るときにはかなり近くからローアングルで撮り、車はドアの部分しか写らないまま画面の左へと切れてゆく。それからトラヴィスたちの車が来る間に、カメラはゆっくりと移動して今度は上から映す。彼らの車は画面の左下のほうへと切れてゆく。言葉で説明してしまうとなんということはないのだけれど、そのカメラの微妙な動きがなんともいいんですよ。
 誉めてばかりですが、たまにはこういうのもいいでしょう。 

 今回見ていて気づいたのは、ヴェンダースの仕事の丁寧さ。さすがに小津好きというだけあって、映像の作りこみようはすごい。まず気づいたのは、冒頭、テキサスのスタンドで、卒倒したトラヴィスが、次のシーンでは病院のベットに寝かせれている場面、トラヴィスの額にしっかり瘤が!すごいぞヴェンダース。こだわってるぞヴェンダース。他に気になったのは音のタイミング、電車が来るタイミング、汽笛のなるタイミング、飛行機の爆音の聞こえるタイミング、撮る側にはどうすることも出来ないはずの音が見事なタイミングではいる。これはヴェンダースの根気なのだろうか?
 今回映像的に気に入ったのは、モーテルから逃げ出したトラヴィスが砂漠を歩いて、道路を渡り、フレームから出たタイミングでウォルトの車が画面の端に入ってくる来るところ。今回はかなり「タイミング」に気を撮られたらしい。しかし、この場面のフレーミングは見事な美しさだと思います。

夢の涯てまでも

Until the End of the World
1991年,アメリカ,158分
監督:ヴィム・ヴェンダース
脚本:ピーター・キャリー、ソルベイグ・ドマーティン、ヴィム・ヴェンダース
撮影:ロビー・ミューラー
音楽:グラエム・レヴェル
出演:ソルベイグ・ドマーティン、ピエトロ・ファルコン、エンゾ・チューリン、チック・オルテガ

 1999年、インドの核衛星が軌道をはずれ地球に降ってくることがわかった。フランス人のクレアは渋滞を避けてわき道に入ったところで、銀行強盗の二人組みに出会い、彼らの運び屋をすることになる。そして金を運びながらパリへと帰る途中、追われる男トレヴァーに出逢うが…
 近未来の世界を飛び回る、ロードムーヴィーといってもいいかもしれない映画。映像へのこだわり、移動するということへのこだわりはいかにもヴェンダースらしいが、映像に新しい技術を用いたことの効果は疑問、個人的には幻想的で好きなタイプの映画だが、いわゆる「ヴェンダースらしさ」からは少しはずれている。 

 この映画には280分のディレクターズ・カット版があるらしい。
 と、聞いて大体の反応は「え?耐えられない」と来るだろう。しかし、私は個人的にはみてみたい。なぜなら、予想するに、そのときには旅をして映像を撮影して歩く部分が増えるだろうと予想できるから。150分のバージョンでは、世界中を鬼ごっこのように飛び回る部分と、実験室の部分の長さのバランスがどうもしっくりこなかった。前半をもっと長くするか、後半をもっとコンパクトにするか、そうしないとどうも落ち着きが悪い。
 ヴェンダースがこの映画で問うているのは、移動手段がこのように高速になってゆく世界で従来の「ロードムーヴィー」は可能なのか?という問いではないだろうか?そして、従来のロードムービーへのオマージュとしてあるいは、ロードムービーを捉えなおす手段としてこのような映画を作ったのではないだろうか?
 私はこの映画の理解しがたい冗長さをそう捉えた。だから、むしろこれでいいのだ。もっともっと冗長で退屈な映画になったほうがよかった。280分のほうがよかった。映画であることを拒否するような映画にして欲しかった。というのが個人的な感想である。