アイ・アム・サム
2003/1/9
I am Sam
2001年,アメリカ,133分
- 監督
- ジェシー・ネルソン
- 脚本
- クリスティン・ジョンソン
- ジェシー・ネルソン
- 撮影
- エリオット・デイヴィス
- 音楽
- ジョン・パウエル
- 出演
- ショーン・ペン
- ダコタ・ファニング
- ミシェル・ファイファー
- ダイアン・ウィートン
6歳くらいの知能しかないという知的障害を持つサムに子供が生まれた。しかし母親は乳飲み子を抱えたサムを置いて逃げてしまう。途方にくれながらもサムは向いに住む外出恐怖症のアニーの助けを借りながら、娘のルーシーを育てていく。
ルーシーが7歳の誕生日を迎えた日、サプライズパーティーをしようとしていたサムの家にやってきた児童福祉局のソーシャルワーカーによって、サムの養育能力に疑問が投げかけられる。愛し合っているサムとルーシーは引き裂かれてしまうのか…
全編ビートルズナンバーのカバー曲で彩られ、ビートルズへのオマージュという色彩が強いこの作品。その音楽も含めて、とにかく観客を泣かそうという意図が徹底しているところが潔くていい。
これはハリウッド史上にも残るかもしれない泣ける映画。ビートルズ云々とか、知的障害云々とか言う疑問や異論は出てくるのは仕方がないにしろ、とにかく物語りも演出もすべてが観客を泣かすためにあるというこの徹底振りはすごい。普通は泣ける映画といっても、テーマがあって、物語があってそれが感動的だから泣けるというのが普通なのに、この映画はテーマとか物語よりもとにかく泣かせようという意図のものに構成されたのではないかと思える。
「泣ける」ということを棚上げにしてしまうとこの映画はなかなかひどい映画で、そもそもテーマがない。親子の愛情がテーマなのだとしたら、こんな特殊事例を持ち出すのはわかりにくいだけ出し、障害者の問題を使おうとしているのなら、あまりに考察が浅い。笑いのネタにすることで見るものの意識を喚起するということ(たとえば極度にデフォルメされたゲイ・ムービー)ならわからないではないけれど、この映画はそこまで考えてはおらず、映画のスパイスとして障害者のユーモアや楽しさのようなものを織り込んだというにとどまっている。ショーン・ペンの演技はなかなかのものだけれど、彼でなければ出来ないというものではないし、アカデミー賞をとるほどでもない。
映画というのはプロットやら登場人物やら、テーマやらユーモアやらペーソスやらいろいろなものが交じり合い、そのどれかが見ている人の心に引っかかればいいという作り方をされることが多い。もちろん何処に重点を置くかは決まってくるけれど、教訓を与えたり、感動させたり、笑わせたり、さまざまな感情を観客に呼び起こすことを目的にしているもので、ただ一つの目的をもって映画を作るというのは純然たるコメディ以外ではあまりない。
この映画は「泣かす」というひとつの目的だけのために映画が作られている。これは、泣くことを求めていない観客には受け入れられる余地がないという点であるひとつのリスクを犯している。だから、このようにひとつの目的だけのために映画を作るというのはなかなか難しいことで、だからこそこの映画はなかなかすごいと思う(ただ、ビートルズを前面に押し出すというのは「泣かす」という目的と同時に、ひとつの話題づくりというか、泣くことを求めていない観客にもうったえかけるひとつの方策でもあると思う)。
もちろん商売としてやっているといういやらしさが垣間見えなくはないけれど、映画はビジネスだし、私たちは商品として映画を求めているのだから、求めているのにフィットする商品があるならば、それば受け入れればいいという単純な話。「泣けるよ」といわれて「じゃあ、泣こう」といってみる。それで泣ければ見るほうもうれしいし、作ったほうもうれしいということで、映画は成功。そんなシンプルな図式がハリウッドらしくて逆にいいのです。(こんな映画ばっかりだと困るけど…)
あなたが泣いたらこの映画は成功、泣けなかったら失敗です。そして泣ける確率はかなり高いと思います。最近涙腺緩ましてないなと思ったらこの作品を見て見ましょう。