モード・イン・フランス
2003/1/13
Mode in France
1985年,フランス,84分
- 監督
- ウィリアム・クライン
- 脚本
- ウィリアム・クライン
- 撮影
- 音楽
- セルジュ・ゲンズブール
- 出演
- ジャン=ポール・ゴルティエ
- クロード・モンタナ
- カール・ラガーフェルド
- クリスチャン・ラクロア
- セルジュ・ゲンズブール(ナレーション)
映画は「ラ・マルセイエーズ」にのって、一流デザイナーたちが登場、80年代のパリコレでの登場シーンが次々に流される。次の断章では、保育園児たちにいろいろな種類の洋服が渡され、メイクも自由にさせるという実験のようなものが行われ、さらにはゴルチエの奇抜なファッションに身を包んだ人たちでパリの街が埋め尽くされるという風景を流す…
ファッション写真家→映像作家→再び写真家、という経歴を持つウィリアム・クラインが、写真家に復帰した80年代にファッション業界の裏側を写し取ったフィルム・ドキュメンタリーというかスナップの集積。ファッションに興味のある人なら一見の価値あり。
まずゴルチエに身を包んだたくさんの人(200人くらいらしい)が待ちに出て普通の生活というか、商売をしたり、大道芸をしたりする断章はなかなか面白い。それはビジュアルとして面白いわけだけれど、それがビジュアルとして面白いというのは、そのファッションが突飛だからである。このファッションが突飛であって街の風景に溶け込まないというところに、ファッションとは何なのか? という根本的な問題が横たわる。ファッションとは身を包むもので、生活の中で身につけるものだけれど、ここで登場するゴルチエのファッションはそうではない。
だからといって、ゴルチエのファッションが奇妙(=おかしい)かというと、(人によって意見は分かれるとは思うが)必ずしも奇妙(=おかしい)というわけではない。そのあたりがファッションの不思議な点であるとこの映画は語る。 そもそも、80年代の一般的なファッションとゴルチエのファッションを今見て比べたときに、どちらのほうが奇抜なのかという判断はつきにくい。
この映画は「ファッションとは何か」ということを繰り返し問いかけてくる。保育園児が身を包むファッションも、歴史として語られるファッションもなぜ人は服を着て、それに流行があるのか、服を着るとはどういうことかということを繰り返し繰り返し問いかける。
映画のテーマというかメッセージとしてはそういうことだと思いますが、私がこの映画を観て独特というか、職業的に映画監督をやっている人たちとは違うと感じたのは、やはり映像の作り方。とくに平面的な映像。
平面的な映像というのは、奥行きがない映像ということで、具体的には画面のたての構造を使わないということ。映画とは平面なスクリーンに映されるものでそもそも奥行きがないものだけれど、フォーカスのあわせ方や広角レンズの使用などによって奥行きを表現するのが一般的なやり方で、そのようにして三次元の空間を作って映画を現実に近づけようとするものである。
この映画も最初のファッションショーのシーンなどは普通にモデルやデザイナーが奥(画面の上のほう)から出てきて手前(画面の下のほう)に移動するというたての構造が使われるのだけれど、ファッションの歴史を描いた断章やクロード・モンタナのパーティーの断章などではこの奥行きがなくなる。単色の背景の前に横一線にモデルを並べ、人は横にしか移動しない。あるいは静止することすらある。
このような視線は写真家であるウィリアム・クライン独特のものなのだと考えがちだが、必ずしもそうではなく、ゴダールなんかもそんな平面的な構造を使うことがある。ゴダールの使う平面の映像は映画空間を三次元として認識している観客に違和感を与え、映画の転調をはかったり、何かざらりとした感触を残すのに役立つ。
これに対してウィリアム・クラインの平面の映像はそれ自体がある種のアートであり、主題のひとつともいえるから、やはり写真家ウィリム・クラインの表現方法のひとつということは出来るのだろう。
話がまとまらなくなってしまいましたが、ようするに映画は根本的には平面であるということをこの映画は意識させ、そのことは映画を見る上で以外に重要なことなんじゃないかということ。映画を三次元のものとするのは映画それ自体ではなく、映画を見ている観客である。そのようなことを意識して、能動的な観客として映画を見てみると、違う観点から映画を見ることができるかもしれない。それによって見えてくる映画のよさとか欠点とかもあるかもしれない。そのようなことを考えたのでした。