僕のスウィング
2003/1/16
Swing
2002年,フランス,90分
- 監督
- トニー・ガトリフ
- 脚本
- トニー・ガトリフ
- 撮影
- クロード・ガルニエ
- 音楽
- トニー・ガトリフ
- チャヴォロ・シュミット
- マンディーノ・ラインハルト
- アブデラティフ・チャラーニ
- 出演
- オスカー・コップ
- ルー・レッシュ
- チャボロ・シュミット
- マンディーノ・ラインハルト
- ベン・ズィメット
10歳の少年マックスは兄弟とともに夏休みの間フランス北部ストラスブールに住む祖母の家に預けられた。町の酒場で演奏していたジプシー・ギターの名手ミラルドのギターに見せられてしまったマックスは、マヌーシュ(ジプシー)が多くする居住する地域に出向いて、ウォークマンとギターを交換してもらう。交換してもらったのは安物の中古ギターだったが、マックスは何とかミラルドにギターを教えてもらえるようになり、近くに住む少女スウィングとも仲良くなる…
ロマ文化を見つめ続け、それを音楽というテーマによって映像化してきたトニー・ガトリフの今度の舞台はフランス。ガトリフの音楽へのこだわりに加えて、少年を主人公にしたことから生まれた物語としての面白さもよい。
この映画はまさにスウィング!というにふさわしいが、ロマに注目し、音楽に軸をおき続けてきたトニー・ガトリフはママすると音楽に傾きすぎる傾向があり、マニアっぽさが漂い、一般受けはあまりしない映画が出来てしまうことがままある。『ガッジョ・ディーロ』なんかは物語としても面白くいい映画だったけれど、『ベンゴ』あたりは音楽に偏りすぎ、没頭できるほど音楽が好きでなければ飽きてしまうということになりかねない。デビュー作である『ガスパール/君と過ごした季節(とき)』(ビデオタイトル『海辺のレストラン/ガスパール&ヴァンサン』)などは音楽の印象はあまりない。
この『僕のスウィング』は少年を主人公に起用し、白人の少年とロマの少女の淡い恋物語というプロットを中心に添えたことで、音楽と物語の両方に土台を置いた、いいバランスの映画になった。導入部分から主人公である少年マックスを前面に押し出し、その対になる存在としての少女スウィングを持ってくるという展開の仕方は、『ラッチョ・ドローム』など群像劇に傾きがちだった「イメージ」の作品から、より物語性を帯びた「語り」の物語へとシフトしたという印象を与える。
しかし、「語る」物語になったとはいっても、もう一方の足は依然として音楽においているわけで、その語りを運んでいくのは映像や音楽ではなく音楽だ。マヌーシュたちの感情や心情を表すのはあくまで言葉ではなく音楽とその表情なのだ。彼らから発せられる言葉や記される文字は彼らにはほとんど意味がない。だから手紙の文言などどうでもよく、自分の発した言葉を守ることにもこだわらない。昔語りを聞くこともない。彼らにとって歴史とは音楽であり、言葉でつづられる物語ではないのだ。
そのような姿勢はものに対する場合にも通じる。音楽は楽器や楽譜に宿るのではなく、音と人間の心に宿るものである。死者の遺品には何の意味もなく、人が死ぬと、ただ音楽だけが思い出として残る。
そのように(言葉に頼る私は)語ることが出来るが、そこには疑問も残る。それは、この映画の主人公の一人であり、マヌーシュでもあるスウィングが自身の音楽を持っていないということだ。男性女性にかかわらずマヌーシュたちは歌うなり、楽器を弾くなりして自分の音楽を持っている。しかしスウィングは楽器を弾くこともなく、歌うこともなく、具体的な音楽を発しない。これはどういうことなのか? 他方のマックスは音楽を求める。
そのふたりは最後には通じ合えたのか…?