雄呂血
2003/1/21
1925年,日本,75分
- 監督
- 二川文太郎
- 原作
- 寿々喜多呂九平
- 脚本
- 寿々喜多呂九平
- 撮影
- 石野誠三
- 出演
- 阪東妻三郎
- 環歌子
- 関操
- 山村桃太郎
- 森静子
時は享保の時代、漢学者松澄永山の門下生久利富平三郎は、城下一番の美女とされる永山の娘奈美江にぞっこん惚れ込んでいた。そんな永山の家に門下生たちが集まる宴の席に久利富ももちろん参加、しかしその席で老中の息子相手に喧嘩をしてしまい、その責任をすべて擦り付けられてしまった。果たして久利富はその汚名を晴らすことが出来るのか…
阪東妻三郎が独立して作った阪妻プロとしての第2作目。阪妻サイレン時の代表作のひとつ。この映画がきっかけとなって日本映画界に剣戟映画ブームが起こったという阪妻の大立ち回りが見所のひとつ。
日本映画史においては、新たな剣戟・立ち回りの形を切り開いた作品として名高いわけで、もちろん阪妻の大立ち回りはやはり見所なわけです。80年前の映画ながら、というよりはサイレント映画ならではのスピード感とダイナミックさがその大立ち回りの生命線。フィルムは痛み、像ははっきりと結ばなくても、その勢いとかっこよさは十分に伝わってくるわけです。やはり阪妻はかっこいい。このときまだ24歳、その若さで自分のプロダクションを立ち上げて、こんな映画を撮ってしまう。やはり阪妻か…
ということなのですが、阪妻の「剣戟王」と呼ばれる一種のアクションスターとしての面よりも、性格俳優というか、あの優しい顔で味のある演技をする阪妻のほうに興味がある私としては、この映画の阪妻のキャラクターというものに圧倒されるわけです。設定としてはとにかく正義感で、曲がったことが大嫌い、バカがつくほどの正直者という感じで、それほどひねりがあるわけではないですが、この物語の展開の仕方はかなりすごい。
とにかく何をしても裏目に出て、どんどん悪いほうへ悪いほうへと進んでいってしまう。それで心もすさんでくるけれど、やはり正義感としての志もあって、その間のせめぎあい・葛藤が起こる。言葉で説明してしまうとちっとも面白くないわけですが、古典的な映画というものから想像するものとはちょっと違う展開なわけです。別になんやかやとこねくり回して複雑なプロットを練らなくても、観客を圧倒するような物語を作れるのだなぁと感嘆してしまうのです。最後まで言ってしまうとつまらないので、この辺で。
つまり、映画史的にはチャンバラなわけですが、私は逆に大立ち回りのシーンはなんだか冗長というか、そんなにやらなくてもいいんじゃないかと感じてしまうのです。この映画が作られたのはまだ大正時代、映画はまだスペクタクルである種の見世物的な要素を持っていたので、このような観客を喜ばせるようなつくりになっているわけですが、今この映画を見直すとき、その時代の見方に引きずられる必要はないんじゃないかと思います。いくら画期的で迫力満点とはいえ、やはり『七人の侍』の雨の中での決戦のシーンなどにはかなわないわけです。
時代性とか歴史とかそういったものに引きずられないようにしてみるならば、そもそもそのような時代性とか歴史を取捨しても面白いかどうかも問題になるし、面白のだとしても(私は面白いと思いますが)、そこから浮き上がってくるのはむしろこの映画が抱える普遍的なテーマとか、阪妻のかっこよさ、演技力、剣戟も含めて観客に伝える力の強さというもの何じゃないかと思います。