モード家の一夜
2003/1/22
La Nuit Chez Maud
1968年,フランス,110分
- 監督
- エリック・ロメール
- 脚本
- エリック・ロメール
- 撮影
- ネストール・アルメンドロス
- 出演
- ジャン=ルイ・トランティニャン
- フランソワーズ・ファビアン
- マリー=クリスティーヌ・バロー
- アントワーヌ・ヴィテーズ
カナダやチリでの暮らしからフランスに戻ってきた主人公は教会で見かけた美女に惹きつけられる。そしてある日、旧友ヴィダルと15年ぶりに街中でばったりと会い、そのままそのヴィダルの女友達で医者のモードの家を訪れる。雪が降り、家に帰れなくなってしまった主人公はそのままモードの家に泊まり、モードに誘惑されるが、教会で見かけた美女のことも気になって…
ロメールの「6つの教訓話」の3話目にあたるこの作品は、神学的な話を会話の中心に持ってきながら、基本的にはラブ・ストーリーの構造を持つ。ほとんどが室内で展開される物語はロメールらしいミニマリズムのきわみといった感じ。
ロメールらしさとは何か。それは見る人によってかなり違うような気がする。イメージとしてのフランス映画らしさ、しゃれた感じ、素人を起用したドキュメンタリー的な筆致、恋愛、哲学的な会話、かすかな音楽、美女、情けない男、海、などなどといろいろな言葉が湧いてくる。ただ「らしさ」とは言っても、すべての作品にすべての要素が入っているわけではなく、そのいくつかが入っていることで、ひとつのロメール的な世界を作り出している。そんな中でこの映画は「ロメール的」といえるものがかなり多く入っている映画だと思える。
私がもっともロメール的だと思うのは哲学的な会話で、どんな話でもロメールはそこに哲学的な会話を入れ込み、しかもそれをBGMとしてではなく、その意味を観客に考えさえるようなものとして提示する。この映画ではそのテーマはカトリックを中心とした神学であり、それは会話として表面に出てくるばかりでなく、映画のプロットをも作用するものとして存在している。ロメールの多くの映画では哲学的な会話が登場人物たちの性格や思想を表現することが多く、それがプロットに係わってくるというのはあまりないが、それはロメール的なものを映画の根幹にまで押し広げるという意味で強度にロメール的だといえるのだと思う。
それにしても、この映画を見るとなんだか心がざわざわする。これまたロメールの特徴にひとつかもしれないが、映画に「間」が多い。それはただ会話が途切れている場面だったり、バイオリンの演奏を聞いている場面だったりするわけだが、その「間」の前には必ず会話があり、その会話の内容が「間」のあいだに心の中で転がって、心をざわざわと騒がせる。非常に直接的にものを言っているようでいながら、実はダイレクトには何も言っていない、そのような会話の言葉と言葉がつながってひとつの意味を成していく過程、そのような過程がこの「間」のあいだに観客の中で行われる。その過程で、その会話のパズルを組み立てることで出てきたものによって、心が波立つ。何かが引っかかり、何かが残る。
この「ざわざわ」はいったい何なのか、考えてみればロメールのどの映画にもこの「ざわざわ」があったような気がする。すべてのロメールらしさがこの「ざわざわ」につながっているのかもしれない。この映画はロメールの作品の中でも「ざわざわ」度が非常に高い作品で(見る人によるのか?)、その意味でも非常にロメールらしい作品ということが出来るのだろう。
なんだかロメールらしさというものにこだわりすぎという感じもしないではないですが、ロメールの映画を見ると、その映画はどうあっても常にロメールであり、そこには「らしさ」が存在する。そしてその「らしさ」とは、ロメールを他の映画作家から差異化しているものとは、いったい何なのかということが気になってしまう。私にとってロメールの映画とは多くの場合にそういう映画であり、それを問わずして映画を見ることができないのだ…