素敵な歌と舟は行く
2003/1/30
Adieu, Plancher des Vaches !
1999年,フランス=スイス=イタリア,117分
- 監督
- オタール・イオセリアーニ
- 脚本
- オタール・イオセリアーニ
- 撮影
- ウィリアム・ルブチャンスキー
- 音楽
- ニコラ・ズラビシュヴィリ
- 出演
- ニコ・タリエラシュヴィリ
- リリー・ラヴィーナ
- フィリップ・バス
- ステファニー・アンク
- ミラベル・カークランド
- オタール・イオセリアーニ
- ジョアサン・サランジェ
パリ郊外の大きな屋敷、そこで開かれているパーティの主役は実業家でもあるその家の女主人。夫は部屋で鉄道模型を眺め、子供たちは勝手に遊んでいる。翌朝、小さい子供たちは乗馬、一番上の息子はスーツを着て舟で出かける。しかし、その息子は舟の上でラフな格好に着替え、街で友達のホームレスの手助けをしたり、窓拭きや皿洗いのアルバイトをしていた。
一方掃除人として働く男は仕事が終わると一張羅のスーツに着替え、友達のバイクを借りて女の子を引っ掛けにいく日々だった…
グルジアの巨匠イオセリアーニがパリの街で交錯する人々の人生をスケッチのように描く。それはのどかなようでいて不思議な緊迫感を持った風景であり、そのまなざしは冷酷ですらある。
パリの街を描いているというと、やはりラブ・ストーリーだったり、おしゃれなエピソードがあったりするというイメージで、この映画も題名からしても、そんな「おパリ」な感じを想像させる。
しかし、この映画は決してそんなものではない。映像は流麗で、人々は自由で、風景はのどか。そのように見えるにもかかわらず、この映画は悲劇なのである。ここに登場する人たちはまったくの悲劇の中を生きている。まず、彼らには名前がない。名前を奪われた人たちはその存在すら危うくなる。ホームレスの存在はその無名性の象徴であり、この映画の本当の中心はホームレスたちなのである。 ホームレスと交流する、本当は金持ちのボンボンである主人公はホームレスの群れの中に入り込むことによって無名性を獲得する。しかし、家に帰れば名前があるかというとそういうわけでもなく、彼は使用人たちからただ「坊ちゃん」と呼ばれるだけなのだ。彼の家族にも名前はない。「母」「夫」「息子」「使用人」そのような呼称で呼ばれる人々がいるだけだ。
名前がないという悲劇は人間が人間とつながろうとする努力を無にする。「使用人」が「坊ちゃん」に、「坊ちゃん」が「カフェの娘」に思いを募らせてもそれは徒労に終わる。
ホームレスの世界の居心地がいいのは、それが無名性が前提となる世界だからだ。無名であることが当然だから、彼らはそれを前提として友情を育む。友達は常に「友達」であって、誰かではない。その中に身を落としこむとき、そこには自由があり、安らぎがある。
しかしそれは依然として悲劇なのだ。かりそめの結びつきはありえても、本当に孤独が癒されることはない。最後までそんな絶望的な空気が漂っている。どこに向かっても悲劇しか待ち受けていない悲劇的な世界、そのような世界がこの映画にはある。
それでもこの映画が悲惨なだけでなくて、むしろ楽しく、そして面白いのは、その語りの妙であり、登場人物に魅力魅力があるからだ。
言葉に頼らない映像表現と徹底的なアンチクライマックス、言葉少なな人々の行動によってすべてを説明してしまうその語りには本当に感服させられる。場所の移動、時間の経過、それらも言葉で説明されることはなく、風景の変化などによって観客に読み取らせる。この表現の仕方はまさに映画らしい映画といっていいものだと思う。
そして人々、その中でもたとえば好色な実業家のドジな秘書、ラブ・ホテル代わりに使われる船の番人といった脇役が魅力的である。ドジな秘書は映画に興味深いサブ・プロットを提供する。その秘書がボスにしかられてカフェに出かけた際、主人公が皿洗いとして働くカフェで皿が汚れていることに文句をつけるというシーンがある。このシーンなどはそこだけで一つの映画的空間が立ち現れてくる秀逸なシーンになっている。
この場面も含めて、この映画はどこか即興的な印象を与える場面が多々ある。しかしそれは決してアドリブではなく、緻密な計算によって作り出されたものだろう。世にあまたあるドキュメンタリータッチの作品はそのつたなさによって即興性を表現しようとする。これは容易なことだ。しかし、この作品は映像に映っているものの生々しさによって即興性を表現しようとする。これは非常に難しい。それを実現するにはたくみに仕掛けられたアドリブか、徹底的に計算された演技が必要となる。この映画の場合は徹底的に計算された演技がその即興性を生んでいると考えられる。それが端的に現れているのが先ほど述べた秘書が皿に文句をつけたシーンで、自分が文句をつけたことによって首になってしまった主人公の後姿を見る秘書の表情の生々しさが、そのことを雄弁に語っている。
この映画は全く派手さとは無縁であり、しかも現実から逃避させてくれることもない映画だけれど、かめばかむほど味が出るような非常にいい映画だと思います。