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2003/2/2
2001年,日本,122分
- 監督
- 行定勲
- 原作
- 金城一紀
- 脚本
- 宮藤官九郎
- 撮影
- 柳島克己
- 音楽
- めいなCo.
- 出演
- 窪塚洋介
- 柴咲コウ
- 山崎努
- 大竹しのぶ
- 細山田隆人
- 山本太郎
- 塩見省三
- 大杉漣
- 萩原聖人
在日で普通高校に通う杉原はバスケ部の練習中に切れてチームメイトたちにドロップキックを食らわせた。それからさかのぼること3年前、まだ中学生だった杉原は地下鉄のホームでホームにはいってくる列車とチキンレースをやったり、暴れてばかりいる民族学校の中学生で、補導されるたびに元ボクサーの父親にめちゃくちゃに殴れる毎日を送っていた…
在日という身近なようで難しい問題を描いて日本アカデミー賞を総なめにした作品。日本アカデミー賞はどうでもいいが、窪塚の存在感と宮藤官九郎の脚本が秀逸。行定勲の演出も、小気味よく現代的ながらも斬新になり過ぎないところがよい。
在日(と言ってはいけないのかもしれないけれど、便宜的にそう呼びます)の問題は近頃はもう問題ではないと意識されてしまっているかもしれない。若い世代では在日と日本人の距離は限りなく縮まり、誰しも友達にひとりくらい在日の人がいて、それが別に当たり前であるようになっている。と、私は感じるけれど、実際のところはそうでもなく、根強く偏見を持っている人たちはいる。
それでもやはり今回の拉致問題などを見ていると、以前よりは偏見というのは少なくなってきたのだと感じることが出来る。ほんの10年まえだったら、こういう問題が起こるたびに朝鮮学校の生徒が嫌がらせにあうというようなニュースが報道される。今回もそのことを危惧したけれど、表立ってそのようなことがニュースになることはなかった。
しかし、偏見が本当に恐ろしいのは、必ずしもそれが表面化しないということで、自分は偏見なんて持っていないという人が心のうちに抱えている偏見こそが恐ろしい。この映画でそのモデルとして描かれているのが桜井ということになるわけで、この映画の時代設定は現在よりは少し前(といってもせいぜい10年前)ということにはなるけれど、いまでも、ここまで極端ではなくても、このような言動を取る人は意外に多い。
この映画はそのような偏見が(心の中に)存在し続けているということを表面化し、しかもそれを現代的な映画として作り上げたところに意義があると思う。文部省選定のくそ真面目な映画ではなく、窪塚が主演しクドカンが脚本を書くという非常に同時代的なものとして作り上げたことに意味がある。この映画を見て、自分は心のそこから偏見を持たずに生きているのか? ということを自問してみる。そんな真面目な態度もまた今の時代には現代的であるような気もする。
ということですが、私としましては、宮藤官九郎の脚本に注目してしまいます。やはり大人計画の、そしてグループ魂の宮藤官九郎がいまや「クドカン」ともてはやされ、売れっ子シナリオライターになってしまったわけですが、果たしてその力は発揮されているのかということに目がいってしまう。
どこまでが原作でどこまでが脚本でどこまでが演出かというのは画面からでは判断できないわけですが、私の見たところ、この映画はかなり宮藤官九郎の脚本が完成された映画にも生きていると思えます。それはたとえば「しゃぶしゃぶさせろよ~」というセリフ。これはいかにもクドカンらしい。あるいは山崎努が歌う「さ~いれん な~い」なんてのもクドカンらしい。
松尾スズキのように軽いテーマも重苦しい笑いにしてしまうのではなく、重いテーマもうまく笑いに持っていく宮藤官九郎の才能はやはりすごいのかもしれません。