裸足の伯爵夫人
2003/3/8
The Barefoot Contessa
1954年,アメリカ,131分
- 監督
- ジョセフ・L・マンキウィッツ
- 脚本
- ジョセフ・L・マンキウィッツ
- 撮影
- ジャック・カーディフ
- 音楽
- マリオ・ナシンベーネ
- 出演
- ハンフリー・ボガート
- エヴァ・ガードナー
- ロッサノ・ブラッツィ
- エドモンド・オブライエン
しめやかな葬儀が行われている墓の前、雨の中かさもささずにたたずむ脚本家で監督のハリー、彼がその墓の主マリアとであったのはプロデューサとともに新人発掘のためマドリッドに赴いたときだった。評判を聞きつけてマドリッドのカフェまでやってきたが、彼女の出番は終了し、宣伝担当のオットーが呼びに行っても耳を貸さない。しかしハリーとは馬が合い、映画への出演を受けることになった…
ロッサノ・ブラッツィがアカデミー助演男優賞を受賞した骨太のドラマ。1954年にしてカラーの技術には目を見張るものがある。主演もハンフリー・ボガートとエヴァ・ガードナーというスター・システムの時代を象徴するような顔ぶれ。
このころの映画の台詞というのは今とは違って抽象的というか、遠まわしというか、言いたいことをストレートに表現しない。そのこと自体は含蓄があって面白いし、ある種のノスタルジーを覚える。
しかし、この映画の場合、それも含めて映画の進め方が非常に重たい。頭からハンフリー・ボガートの語りというのも重いし、マリアという一人の女性をめぐって、ハリーとオットーの語りがリレーのように連なっていく展開も重い。この重さとセリフの遠まわしな感じが、映画のスピードを落とし、全体的にもたもたした感じになってしまっている。
もちろん、これは現在から見た見方であって、このころの映画はこんなスピードで展開していたと見るのが正しいだろう。このスピードの映画を見ていると、今の映画では得られない行間の読み取りなんていうことも意識できて面白い。
カラーというのも時代的に新鮮なものだっただろう。どのシーンでも影があまりにくっきり映っているのは、カラーフィルムの感度のせいで、非常に大きな光量が必要となったからだろう。屋外のシーンはほとんどがよく晴れた日だし、雨のシーンもどうも実際の雨の日っぽくない。晴れの日に雨を降らせて撮ったんじゃないかという感じ。しかし、それも映画史の一ページという感慨がある。
それに、映画にこめられた価値観というのも非常に時代を象徴している。男性のモノローグで展開されることもあるが、ほとんどすべてが男性の視点から語られていて、女性の主体性というものを欠いている。男性の社会の中で翻弄される女性、女性にとっての幸せは恋をし、男性を愛することだけだとでも言いたげな話の展開の仕方。1970年代にジェンダー論議が持ち上がるまでは映画も世の中もこんなもんだったんだと改めて思います。
そして、この映画に出てくるのは白人ばかり。舞台がヨーロッパというのもあるけれど、どこに行っても白人白人、ジプシーっぽく描かれている人たちもどう見ても無理やり汚した白人にしか見えない。このころのスクリーン上での有色人種の不在というのはかなり興味深いものがあります。これも60年代公民権運動が盛り上がる以前の時代であるということも象徴してるでしょう。
そして、若者の不在。マリアは大人たちの世界に引き上げられるひとつの人形として描かれており、人間として存在しているのは大人のお金持ちの白人の男たちだけ。それがこのころの世界だった、ということです。50年代といえばアメリカはビートニクの時代、ようやく若者文化といえるものが生まれてきた時代。映画界でもジェームス・ディーンなんかが活躍し始めるころ。この年のアカデミー作品賞は『波止場』、主演男優賞はマーロン・ブランドということで、まさに若者が主役になりつつあった時代といえるのではないでしょうか。
そんなことを考えると、この映画は古い時代の最後の輝きというか、新たなものに変化していく直前の時代を端的に表したものという感じがします。