家族の肖像
2003/3/12
Gruppo di Famiblia in un Interno
1974年,イタリア=フランス,121分
- 監督
- ルキノ・ヴィスコンティ
- 脚本
- スーゾ・チェッキ・ダミーコ
- エンリコ・メディオーリ
- 撮影
- パスクァリーノ・デ・サンティス
- 音楽
- フランコ・マンニーノ
- 出演
- バート・ランカスター
- ヘルムート・バーバー
- ドミニク・サンダ
- クラウディア・カルディナーレ
- シルヴァーナ・マンガーノ
家政婦とひっそりと暮らしている初老の大学教授、孤独な生活を送っていたが、絵を持ってきた画商同時にやってきた公爵夫人が空いている階上の部屋を借りたいと言い出す。最初はかたくなに断っていたが、娘やその婚約者も出てきてつい貸すことにしてしまう。そこからその大学教授は階上の公爵夫人の家のごたごたに巻き込まれてしまい…
いかにもヴィスコンティらしい風情の映画だが、70年代と時代も下り、昔の作品と比べるととっつきやすくなっている感がある。
イタリア映画っぽい映像というのはどんなものかと考えると、まさにこの映画こそイタリア映画っぽいという気がする。漠然とイタリア映画を見ていると、映像に何か共通する感じがあり、それが具体的に何なのかはわからなかったのだが、この映画の映像こそがそのイタリア的なるもの典型というか、雛形というか、教科書的なものであるような気がした。
もちろんそれはこの映画に限らず、ヴィスコンティのほかの映画でもいいのだけれど、イタリア映画というと(今は)白黒よりもカラー、ちょっとおとしめの照明の中に微妙な色合いが重層的に重なっているみたいなイメージ、そのイメージがこの映画にある。それは白黒からカラーに移行するときにヴィスコンティと同時代のイタリアの作家たちが作り上げたスタイルであるということだけれども、今までに見たどの映画よりもこの映画にその模範のようなものが感じられたということ。(わたくし的な興味から言うと、イタリアで修行した増村保造の映像術との共通点もなんとなく見える気がします)
この映画は基本的に室内劇で、外の風景は出てこない。外とはあくまでも語られる存在で、風景としては出てこない。つまり、この映画自体が一つの閉じられて空間であり、閉じられた空間に暮らすある種の集団が映画のテーマになる。それを「家族」と呼ぶことこそがこの映画の主題となるわけで、そこにヴィスコンティとしてのメッセージというか、問いがあるのだろう。
没落する貴族という「家」の崩壊の象徴、家族制度の根幹である一夫一妻制を突き崩す若者の奔放な性、それらによって変わっていく「家族」というものの姿を描こうとしているのは題名からも明らかだ。
それはそれでいいとして、私は先生/プロフェッサーとコンラッドの出会いを見て、「これは同性愛映画だ!」と思ったのですが、全体的にはそのような展開ではなく、いくつか示唆的な言葉は出てくるものの、表面的にはそうではないような気がします。私が「同性愛映画」と思ってしまうほうが偏見なのか、それともヴィスコンティがひそかに同性愛的視点を盛り込んだのか、あるいは自然とそのような視線がカメラに入り込んでしまったのか、それはわかりませんが、そのような視点が感じられたことで、「家族」の問題に対する見方も変わってきてしまうというわけです。
結論じみたことをいってしまえば、ヴィスコンティはむしろ家族のあり方というものが変わるべきで、もっと自由に家族というものはあっていいのではないかと考えているような気がします。孤独に生きるプロフェッサーが徐々に考え方を変えていく姿と、従来の家族制度の中では孤独に生きるしかない自分自身の姿を重ねあわせ、そこから何か希望を見出そうとするようなそのようなものであるような気もしてきます。