静かなる一頁
2003/3/18
Tikhiye Stranitsy
1993年,ロシア=ドイツ,77分
- 監督
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 脚本
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 撮影
- アレクサンドル・ブーロフ
- 音楽
- グスタフ・マーラー
- 出演
- アレクサンドル・チェレドニク
- エリザヴェータ・コロリョーヴァ
冒頭、工場らしき建物の概観がゆっくりと映される、その後雑踏の中の若者、ひとりの老婆が殺されたということが町の話題に上る。橋の欄干のようなところや、建物の窓からしたの水面に飛び込む人々。
老婆を殺した若者というモチーフからこれがドストエフスキーの『罪と罰』の翻案であることは明らかだが、ストーリーらしきものはなく、モノクロームの断片的なイメージの連続である。老婆を殺したと思われる一人の若者を中心に物言わぬ人々が歩き、見つめ、陰鬱とした光景が連なり、ぬるりぬるりと見るものの心の中に入り込んでくる。
とにかくファーストカットから遅い。映画を「語るもの」であると考えると、それはなんとも退屈な、ただの建物の外壁が映っているだけのものだ。しかしじっくり見ていると、それでも何かを語りだす。ただ外壁をゆっくりと映しているだけであるにもかかわらず、何かSFじみた、荒廃した近未来の空気を感じる。テクノロジーが後退してしまった未来、そのようなイメージがそのファーストカットにはある。果たしてその「読み」が正しかったのかどうかは映画からはわからない。ただ、その「読み」に引きずられて映画全体を見ることになるのは確かだ。見る人によって「読み」は少しずつ異なってくるかもしれない。荒廃した近未来と読まず、単純に19世紀ころだと見るのも可能だ。重要なのはむしろこの映画が語っていないにもかかわらず「読み」を誘発することだ。
このような「読み」を促すものにどのようなものがあるかと考えると、一番近いものは抽象画である気がする。あるいは抽象的なコラージュ。この映画に映っているものは具体的なものだけれど、全体としては非常に抽象的な像しか結ばない。『罪と罰』というひとつのモチーフ、それが存在し、そのモチーフを示唆するような言葉が語られるけれど、それ以上のものはない。
抽象画のようにそれぞれの構成要素がどのような効果を持っているのかを考えさせられる。そのようなものとしてこの映画はある。全体としての「意味」は問われていないと思う。芸術としてどうなのか、ということだけが問われている。純粋なコンポジションの美しさ、均衡と不均衡、緊張と弛緩、メタファー、などなどいろいろな要素が全体として一枚の絵画を作り上げようとしている。
他にたとえるものがないから絵画にたとえたけれど、それは主に資格によって構成された純粋芸術という意味でたとえたに過ぎず、実際のところはまったく別個の芸術ジャンルになる。
芸術としては成立している。そこから先は好みの問題だ。ピカソはすごい、しかし好き嫌いはある。そのような問題としてこの映画にも好みの問題はある。私はといえば、それほど隙というわけではない。映画を絵画と比べたときの難点はそのスピードの強制力にある。絵画は自分のペースで見ることができる。ゆっくりと見ているうちに発見があり、その絵が好きになったり嫌いになったりする。絵のどこかにあるほんの小さな一点を見つけたことでその絵が好きになることも嫌いになることもある。しかしその発見は自分のペースで見ることによってなされる。映画の場合は、あらかじめ作家によってスピードが決められ、1カットが映されるている時間も決まっている。その時間に発見があるかないかは観る人によって違ってくる。ソクーロフはおそらくみんなが発見してくれると期待し、信頼しているのだろう。しかし、発見できるとは限らないし、私もソクーロフが意図したものの半分も発見できなかった気がする。
それはソクーロフのこの映画のリズムが自分に今ひとつ合わなかったということだ。もちろん見る環境なんかにもかかわってくることだけれど、そのようなことが好き嫌いに密接にかかわってきてしまうのだ。この映画からは映画芸術の時間的強制力という問題点に対するソクーロフの工夫を見出すことは出来ず、むしろそれが強調される結果になってしまった。ソクーロフのほかの映画を観ることで、あるいはこの映画をもう一度あるいは二度見ることで、その問題に対する何らかの工夫が見られるのだろうか? それが今後ソクーロフの映画を見る上での一つの興味となったことは収穫といえるかもしれない。
実際、このような映画を評価し、論評するのは非常に難しい。芸術として優れていると思う。私にとって芸術的に優れているというのは作品の中にどれほど多く「問い」が含まれているかということに深くかかわってくる。そのような意味でこの映画には多くの「問い」が含まれていた。しかし、映画としてはどうか。私は映画にはもっと「語ること」を求めたい。もっと観るものを導いて、頭の中に「問い」がやってくるのを助けてほしい。そのように思うのです。