カフェ・ブダペスト
2003/3/20
Bolshe Vita
1995年,ハンガリー=ドイツ,101分
- 監督
- フェケテ・イボヤ
- 脚本
- フェケテ・イボヤ
- 撮影
- サライ・アンドラーシュ
- 音楽
- ユーリー・フォミチェフ
- 出演
- ユーリー・フォミチェフ
- イーゴリ・チェルニエッヴィッチ
- アレクセイ・セレブリャコフ
- ヘレン・バクセンデイル
- キャロリン・ロンケ
時は1989年、ロシアのバンドがバスでハンガリーを目指す。しかし国境で止められてチェコをまわる大回りの道へ、そんな中メンバーのうちのふたりユーリとワジムがちょっとしたことでバスを降りてしまう。二人は独力でブダペストに到着。路上で演奏していたところを下宿屋のおかみに拾われる。その下宿屋には西を目指してモスクワから列車でやってきたセルゲも滞在していた。
社会主義体制が倒れるときの映像も織り交ぜながら、いち早く資本主義化したハンガリーに集まるソ連の人々を描く。社会制度について、国について、人間について考えさせられる佳作。
ロシアの殺伐とした風景から映画は始まり、国境の役人の冷たさなどがあって、ハンガリーの賑わいへと移る。まず語られるセルゲの物語は、自由と孤独が表裏一体であることを語る。「ソ連にとってはココも西側だ」といわれる自由主義経済化が進んだハンガリー、あふれるモノと裏腹に、知る人もいないセルゲは孤独で、公園に寝るホームレスたちにこの社会体制がいやおうなく抱える不平等と孤独を見る。セルゲの物語は常に孤独について語る。「個人」になるということの本当の意味が語られる。
ユーリとワジムがぶつかるのはコミュニケーションの問題だ。ユーリやワジムは心惹かれるマギーやスーザンとうまくコミュニケーションをとることが出来ない。言葉という手段を奪われた人間はそれへの戸惑いを覚えつつ、他の手段を求めるしかない。その時ユーリがそのことを以外に容易に受け入れているのに対し、マギーはそれをなかなか受け入れられず、いらだつ。そこにあるのは言葉というコミュニケーションの効率、それに鳴らされ、それが不可欠であるような加速された社会である資本主義社会で暮らしてきたマギーと、それと比べるとゆっくりとした社会で暮らしてきたユーリの感覚の仕方の違いなのではないだろうか。
そのような環境の違いからくる感覚の仕方の違いをこの映画は浮き彫りにする。イギリスやアメリカの社会の殺人的なスピード、そのスピードに慣らされてきたマギーやスーザンはそこで何かを失っている、何かの感覚が麻痺してしまっている。それは大きく言えば絶え間ないストレスであり、彼女たちは無意識のうちに癒しを求め、それを求めて東欧をさすらっている。ふたりがロシア人の男に求めるものを見つけた。スーザンが婚約者について語った言葉に対してマギーが「ユーリと同じ」といったのは無意味ではない。驚異的なスピードの社会の中で麻痺してしまった感覚を癒してくれるような何かがロシアの男にあったのだ。
しかもそれは言葉という非常にスピードを持ったコミュニケーションの手段によっては見出すことの出来ないものだった。だからこそ異国の言葉の通じない人たちの中に見出すことが出来た。しかもそれは西側諸国がどんどんスピードアップしていく中で、違う社会体制をとることによってそのスピードから取り残された東側諸国の人だからこそもつような性質のものだった。
西側諸国は東側諸国を自分たちが救ったように見る。確かに東側諸国の人々は飢え、苦しみ、内爆発を起こした。そして資本主義体制にすりよったように見える。社会主義諸国が唱えていた地上の楽園はそれ以前の歴史で実現された社会のスピードにそぐわなかった。言葉をはじめとしたコミュニケーションだけではなく、物理的な移動のスピードも、情報の移動のスピードも加速度的に速まっていく中ではある意味では村社会に戻るような社会は実現し得なかった。
しかし、西側諸国は逆にそのように停滞した社会のゆっくりとしたスピードにある種の「癒し」を見出したのではなかったか。それは西側諸国の過度に加速された社会への警鐘でもあったのではないか。しかし、その加速がとまることはなく、旧東側諸国も巻き込んで、加速度は速まるばかりだ。しかしこれは避けられないことであるという気もする。人間は社会全体という視点で見れば、そのように無理をしながらも「発展」に向って進まざるを得ない生き物なのかもしれない。