マリア
2003/3/23
Мария
1975~1988年,ソ連,40分
- 監督
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 脚本
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 撮影
- アレクサンドル・ブーロフ
- 音楽
- 出演
- ドキュメンタリー
2部構成の映画の第1部はソ連の普通の農婦マリアの夏の生活を描く。自らトラクターも運転する力強い農婦のマリア、夫と娘と暮らし、穀物の刈り入れをし、楽しそうに暮らしている。しかし息子をなくすという悲劇も経験していた。そのマリアをただただ追ったドキュメンタリー。第2部は長い長い車窓の風景から始まる。そして村に着き、9年前に撮影したフィルムの上映会をするその会場にマリアはいなかった。
ソクーロフが学生時代に処女作として撮影した第1部に後日談を加え編集したドキュメンタリー、一見素朴のようでいて、ソクーロフ的な要素が混じり入り、まさにソクーロフの原点という作品。
この映画で一番印象に残っているのは、上映会を終えたあと涙するマリアの娘タマーラの姿である。上映会をした時点でマリアはすでになくなっており、マリアの夫(つまりタマーラの父)は他の女と結婚していた。タマーラはおそらく、生前の母の姿を見て涙したのだろう。そのタマーラ自身も結婚して子供を持つ母親になっている。
ただ単純にマリアと家族と近所の人々のある年の夏を映しただけの第一部。それは処女作とはいえ、学生時代の秀作であるだけに非常に素朴で淡々としている。そこにあるのは真夏なのに秋のようなロシアの日差しと、マリアとその家族の笑顔、そして時折のぞくマリアの苦悩。ソクーロフ自身“エレジー・シリーズ”の第1作と位置づけているだけに、そこに見えるのはロシアに暮らす農民の悲喜こもごもとした日常を描いたエレジーである。しかし、それ以上ではなく、マリアとはロシアじゅうにあまたいる農婦の一人でしかない。
しかし、第2部、マリア自身がなくなったことによってマリアという人の独自性が立ち現れてくる。もちろんタマーラにとってはかけがいのない母だったマリア、具体的には語られないが権力にも屈しない強い人間であったマリア、息子を失った母親として苦悩の中に生きたマリア、そのような具体的な個人としてのマリアが浮き上がってくる。
ドキュメンタリー映画を撮るということは、その被写体となった人々とともに生きることだと思う。「撮る-撮られる」という関係は一種の暴力であると同時に、撮る側が撮られる側の生き方に踏み込む行為である。だから撮る側はその撮られた人の人生をともに生きずに入られない。そのような感受性を持って映画を撮らない限り優れたドキュメンタリー映画など撮れないと思う。そして加えて言うならば、そのような感受性を持って被写体とともに行きながら、それを冷静に見つめる目も持っていなければならない。
最後に5,6年後にまた訪れたいと語るソクーロフはマリアの、そしてタマーラとともに生、彼女たちを放っては置けない気持ちになっている。しかしそのことで映画が感傷的になることはなく、芸術としてひとつの形を撮るように組み立てる。
第1部を撮った時点ではある一人の農婦のエレジーを撮るだけのつもりだったかもしれない。そのために名もない村を選び、名もないひとりの農婦を選んだ。しかし、第2部を撮るときにはマリアはソクーロフの人生の一部であり、一人のマリアという個人として扱うしかなかった。
この世界に一般的な誰かなど存在しないということは当たり前のことではあるけれど、分析的に物事を見つめるとき、われわれはそれを忘れがちだ。だから一般的な何かを描こうという試みは多くの場合成功しない。そして逆に個としての何かを描くことによってより一般的な何かを描き出せることは多い。そのようなことがぱっと心に届く瞬間、それがタマーラがあふれる涙をハンカチでぬぐう瞬間だった。
その2
第1部は非常に素朴なドキュメンタリーという感じだ。この当時のソ連の集団農場はうまくいっていたのか、そこで働く女性たちの表情は明るく、血色もいい。そして、休暇もあって、マリアは家族と海水浴に遠出したようなのだ。
果たしてソクーロフはこの処女作で何を描こうとしたのか。ひとりの若者として単純に農場に興味があり、ただそれを記録するがためにカメラを携えて行ったのだろうか。
この第1部で一番印象的なシーンは果てしなく広がる、地平線までまったくさえぎるものがなく続く広大な農地である。マリアはトラクターの作業台に座って、その広大な台地を果てしなく進む。植わっている作物が何かはわからないが、その広大さはまさに言葉を失うほどである。
農婦たちのこまごまとした作業を観た後に、その広大な台地を見ると、人間の小ささが際立ってくる。しかし、同時にその小さな人間がそのあまりに広大な大地をコントロールしてもいるのだ。そのような人間と自然との関係、それをソクーロフは描きたかったのだろうか。
そこに挿入される息子の墓参りのエピソードは何を意味するのか。「死」という人間にコントロールできないものの存在を象徴的に示しているのだろうか。息子を失った母の悲しみは果てしなく深いものだろう。
一方で喜びのもととしてある果てしない大地、他方で果てしない悲しみとしての息子の死、そして楽しげな休暇、それらが象徴的にあらわしているのは「引き裂かれている」という人間の根源的な性質だろうか。
牧歌的で素朴に見える第1部はわれわれに疑問ばかりを投げかける。
そして第2部は明るい陽光に照らされた第1部とは対照的にモノクロームの女性の顔に始まり、重く垂れ込めた雲の下を旅する長い長い車窓の風景のシーンが続く。これがマリアのいた村に向かう旅であることは明らかだが、それはわくわくするような楽しいものではなく、単調で退屈な重苦しいものである。車窓には似たような家が等間隔で並ぶ風景が展開されるだけで、人影も見えない。
そして上映会にマリアの姿はない。
その再開の場で展開されるのは喪失の体験である。娘は母親を失い、父親が再婚することで父親も失った。ナレーションは上映する映画の短さを嘆き、観客たちは感想を語ることもなく去っていく。そこに立ち現れてくるのは失われてしまった時、降り注ぐ陽光とマリアの不在だけである。
それがもっとも強く現れているのは娘のタマーラである。彼女も家庭を持ち、子供もいるのだが、この映画を見る限り、それは失われたものを埋め合わせようとする行為にしか見えない。
そして観客は、対象からの疎外感を監督と共有しながら、「5、6年後にまた訪ねようと思う」というナレーションの声に救われたような思いでスクリーンの前から足早に立ち去るのだろう。そこに描かれている人と人との果てしない距離感はあまりに痛い。