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ドイツ零年

2003/4/16
Germania Annno Zero
1948年,イタリア,75分

監督
ロベルト・ロッセリーニ
脚本
ロベルト・ロッセリーニ
カルロ・リッツァーニ
マックス・コルベット
撮影
ロベール・ジュイヤール
音楽
レンツォ・ロッセリーニ
出演
エドムント・メシュケ
エルンスト・ピットシャウ
バーバラ・ピンツ
preview
 1947年のベルリン、まだ戦争の傷跡が色濃く残り、街は瓦礫の山、人々は貧しく、配給の列に並びながら、闇市が派手に開かれる。そんなベルリンで暮らす少年エドムンドとその家族、父親は病気で家で床に伏し、兄は最後までナチスとともに戦ったことから収容所送りになることを恐れて家に閉じこもっている。姉は金持ちが集まるバーに出入りして生活費を稼いでいた。そんなエドモントが街で偶然小学校時代の恩師にであう…
 ネオ・リアリスモを代表する作家ロッセリーニが戦争とナチスを正面から捉えたドラマ。そのリアルなタッチと物語の面白さ、画面の緊迫感、ドイツ人が抱える精神的な危うさ、そのすべてが見るものに迫ってくる。
review
 今、この映画を見ることは非常に意味があるように思えますが、文字という永続性のあるメディアで語る以上「今」という言葉の使い方に多少の迷いを感じます。しかし映画を見て、まさに「今」これを書いているということの意味こそが重要なのでは、という気もします。

 さて、「戦争とは何か」とは21世紀初頭の今、改めてわれわれに突きつけられている問題でもあります。この映画では戦争を経験した人々が、まさに戦後を経験しているそのリアルな時間を演じている。闇市、配給の行列、貧困、盗み、占領軍、日本でもおなじみの戦後の風景がそこにあり、この映画でそれらを経験している人々を演じている人もまた、まさにその体験をしている人々である。
 この映画に描かれるのは戦争によってもたらされた一家族の悲劇以外の何ものでもない。そしてその悲劇の本当のもとは心の中にあるという話。ナチズムというひとつの思想を教育されて育った子供が、一瞬のうちにその思想を否定されるという経験、それはある種支えを失う経験である。そこには空白があり、混乱がある。一つの価値観を根底から覆されてしまったエドモントはその混乱の中にいて、しかし生きていかねばならないし、兄も養わねばならない(兄を養うことはエドモントにとってむしろ一つの支えになっている)。
 そのような混乱に陥れられ、生きる土台を失ってしまった子供たちは果たして救われうるのだろうか?

 戦争の技術がどんなに発達しても、戦争によって傷を負う人間の心に違いはない。情報を得る手段が多様化し、情報を統制することは難しくなった。しかし、情報を自由に得る手段を利用できるのは限られた富裕者だけで、貧しい人たちに行き渡る情報を操作することは未だに比較的容易だ。
 北朝鮮の子供たちはどうなるのか、アフガニスタンの子供たちはどうなるのか。機関銃を握り締めながら一心不乱にコーランを読んでいたアフガニスタンの子供たちは兵隊になるしか生きるすべがなく、その中で一つの価値観を植えつけられ、その結果テロリストと断じられ、命を落とす。そこに今世界が抱える根本的な悲劇を感じないだろうか? テロリストだから殺す、フセインを支持する軍隊だから倒す。巨視的に見れば正当化が容易であるそのような行為こそが悲劇の源なのではないだろうか?
 巨視的にものを見ることで失われてしまう身近な世界。マスメディアを介して伝わるあくまでイメージでしかない人々。そのような人々にもそれを見る自分と同じ生活があるのだという想像力が働かなくなってしまう状況。それが遠い国の人であれ、隣に住む人であれ、彼らは「テロリスト」であったり、「シーア派」であったり、「喜び組」であったりはしても、ひとりの人間ではない。

 メディアとは(映画も含めて)そのように人間をイメージ化してしまうものだと思う。この映画はそのことを思い出させてくれる。イメージ化された「ナチス」なるものがどんなものであったのか、その「ナチス」なるものに含まれていた人々とはいったい誰なのか、そう考えていくことで、エドモントの家族の悲劇の源は「ナチス」よりもっと深いところにあり、それにメディアも加担しているということに気づくことが出来る。
Database参照
作品名順: 
監督順: 
国別・年順: イタリア

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