ストロンボリ 神の土地
2003/4/22
Storomboli, Terra de Dio
1949年,イタリア=アメリカ,109分
- 監督
- ロベルト・ロッセリーニ
- 脚本
- セルジオ・アミディ
- アート・コーン
- ロベルト・ロッセリーニ
- ジャン・パオロ・カレガリ
- レンツォ・シザーナ
- 撮影
- オテッロ・マルテッリ
- 音楽
- レンツォ・ロッセリーニ
- 出演
- イングリッド・バーグマン
- マリオ・ビターレ
- レンツォ・シザーナ
第二次大戦直後のイタリア、迫害から逃れてきたリトアニア人の女カーリンはアルゼンチンへの移住も却下され、数度しか話したことのない兵士のプロポーズを受けることにする。結婚式を終え、夫とともに夫の故郷に渡ったカーリンが目にしたのは活火山を持つ荒れ果てた小さな島だった。カーリンはその暮らしもままならぬ土地で、孤独にさいなまれていく…
ロッセリーニの映画に衝撃を受け、自ら売り込みの手紙を出したバーグマンにロッセリーニが答える形で実現した映画。この作品の撮影中、ロッセリーニとバーグマンの不倫がスキャンダルとなり、バーグマンは結局夫と子供を捨てることになった。
ロッセリーニといえば、“ネオ・リアリスモ”の代名詞だが、“ネオ・リアリスモ”とは何なのか。基本的には素人の役者を使って、彼らの生活をフィルムに刻む。ドラマとしてではなく、日常を切り取った率直なフィルムとして映画を提示する。そのような営為であるように思える。だからこそ映画は生々しく、“リアル”なものが作りうるし、権威に対する抵抗となりうるのだと思う。
そのようなロッセリーニの映画にバーグマンというハリウッドのトップ女優が出演する。それはネオ・リアリスモの精神と矛盾しているのではないかという疑念が頭に浮かぶ。しかし、この作品ではバーグマン自信がイタリア語ができないことを逆手にとって、イタリア語のできない役を振り、そこにある種のリアリズムを生み出す。そのあたりがロッセリーニのしたたかなところなのだと思う。
そのようにしてできた作品は観客が基本的にバーグマンの視線に入り込むように作られている。見知らぬ人たちばかりの、言葉も伝わらぬ島で孤独を味わい、さまざまなことに戸惑う生活、そんなカーリンの焦燥感を観客もともに味わう。島の人たちの偏屈さに憤りすら覚える。
そのようにカーリンの視線に観客を導くことは、観客を島の人々の生活に対する傍観者の位置に立たせることでもある。島に生活する人の一人としてではなく、外から島にやってきた人間として島を見る。それはどこか典型的な“ネオ・リアリスモ”とは違っているような気がする。人々の生活を内部から描くというのとは少し違っているような気がする。
しかし、全体としてはある一つの生活を映画いているし、最後まで見れば、島の生活がひとつの“リアル”なものとしてたちあらわれてくるような気はする。だから、面白いし、いいと思うけれど、なにかバーグマンというひとりの女優(それもすばらしい女優)の存在によってロッセリーニの作風は変わったのではないかという気もする。
もちろんそれは悪いことではないし、それが“ネオ・リアリスモ”の典型から外れたとしても、そんなジャンルなんてものは批評家があとからつけた名前に過ぎない。だからロッセリーニはあくまでも自由に自分の作りたいものを作り、そこに何か“リアル”なものがあれば、そこにはロッセリーニらしさがあると思う。
さて、ここから2回目のレビュー(ネタばれあり)
まず、映画の前半で気になるのは赤ん坊の泣き声である。カリーナが始めて島に来たときに聞く赤ん坊の声、声は聞こえるが姿は見えない。この姿の見えない赤ん坊の声はその直後にもう一度繰り返される。ここには何か象徴的な意味がありそうだ。
島の人たちがカリーナたちに冷たい仕打ちをするのは、彼女たちが島の人々が抑圧している欲望に従って行動しているからだ。自分たちの実現できない欲望を実現している人々を見て感じる嫉妬、それが彼らを偏屈にし、カリーナへの冷たい仕打ちとなって現れる。
そして、その抑圧というものが島の厳しい生活によってもたらされたものであることが噴火のシーンでわかる。彼らは島の厳しい生活の中で育つことで、自らの欲望を抑圧し、自然と何とかやっていくことを覚えて行ったのだ。だから、彼らにとってカリーナの奔放さは異物であり、自分たちが抑圧し忘れ去ったはずの欲望を思い出させてしまう悪魔に違いないのである。その認識が無意識的なものであっても、彼らは彼女をそのように捉えて彼女を排斥する。
その構造は司祭に端的にあわれれる。司祭は抑圧に熟練しているため、彼女を最初は受け入れる。しかし司祭室で彼女からあからさまに誘惑されることで態度をかたくなにする。厳しい修行の末に押し殺した欲望が彼女によって呼び覚まされることを恐れたために、彼女を遠ざけるのだ。
その意味で、映画の最後に彼女が「私も悪かった」というのは正しい。彼女は島の人々のそのような抑圧に眼が行かなかったのだ。
この映画の結末は非常に漠然としている。彼女は火山の高みに上り、神を見出すが、その結果彼女が何を選択するかは明らかにはならないのだ。村に戻りそうだという雰囲気は感じるが、もしそうだとしたら彼女は自分の欲望を抑圧し、島の人々に自分を適応させなければならない。
少なくともいえるのは、彼女が気を失うように眠る前に祈っていたのは自分の神であるのに対して、眼を覚ましたあとに祈るのは別の神であるということだ。別に島の神というわけではないがより普遍的な神である。
この間に彼女に訪れたのは、島の人々の精神を想像するという他者への想像力である。その想像力を働かせて彼女は寛容になる。つまり彼女は島の人々を許すことが出来るようになったというわけだが、それと彼女自身がその抑圧を受け入れるかどうかという問題は直接つながらない。ここで問題なのは、彼女が島を出て行くかどうかではなく、そのように他者との衝突から新たに寛容さを手に入れたということなのではないか。