こころ
2003/4/23
1955年,日本,122分
- 監督
- 市川崑
- 原作
- 夏目漱石
- 脚本
- 猪俣勝人
- 長谷部慶治
- 撮影
- 伊藤武夫
- 藤岡粂信
- 音楽
- 大木正夫
- 出演
- 森雅之
- 新珠三千代
- 安井昌二
- 三橋達也
- 田村秋子
明治45年、学者の野渕は友人の墓参りのことで妻とけんかをしてしまう。そして、墓のところで知り合いの学生日置に会う。日置は野渕を「先生」と呼び、打ち解けているようだが、野渕にはどこか近づきがたいところがあった。そして野渕は自分を卑下するような言動ばかりしていた…
夏目漱石の名作「こころ」の初の映画化。かなり原作に忠実に、しかし映画としてのおもしろさも犠牲にならないように、しっかりと作ったという感じ。主な登場人物も4人とかなり地味な映画だが、それなりの緊迫感がある佳作。
誰もが知っている夏目漱石の「こころ」、それを映画化するとなるとあまり原作のイメージから離れてはいけない。見る人はどうしても原作のイメージを引きずるから、自分の頭の中にある「こころ」と映画があまりに離れてしまうとうまく映画と折り合えなくなってしまう。だから作る側としてはどうしても、原作に近づき、なるべく忠実に映画化していかなければならないと考えるはずだし、会社もそれを望むだろう。市川崑はそれを把握して、原作に忠実に、重要なポイントと映像化しやすいポイントをピックアップしながらうまく2時間にまとめる。そのあたりはまさに職人芸という感じで。このころ、日本映画の黄金期の監督たちが一面では“映画職人”であったという事実を再認識させられる。
森雅之の眉間の皺、新珠三千代の美しさ、そのあたりは原作とも監督とも関係なく、この時代の映画にあまねく見られる要素だ。かれらもスターであると同時に職人であり、どんな作品でも観客の目を奪い、心をつかむすべに長けている。映画が量産されていた時代、誰もが知っている原作、それを忠実に映画化する職人たち。というのがこの映画を見たときの素直な感想で、それはそれで面白い。だからこそこの時代の映画が多く今も見られているのだと思う。
市川崑はしかし、そのような職人監督としての忠実な仕事をこなすだけでなく、その中に自分の主張を入れていく。パッと新珠三千代をクロースアップで真正面から捉えたショット、下宿屋で部屋を跨いで動くカメラ、新珠三千代の後姿をドンと真ん中に据えて後ろで2人に会話させる構図、それらは市川崑的世界を垣間見せてくれる。市川崑が売れっ子監督となるのは50年代後半から。だから、この作品あたりは、ちょうど市川崑らしさというものが生まれてきたころだったのだろうか。職人的な仕事をこなしながら自分らしさをそこに入れていこうという努力の中から、らしさというものが生まれてきたのではないかと感じる。50年代から60年代にどんどんおもしろ作品を作ってきた監督は誰しもそのような過程を踏んできているような気がする。そのようにして経験をつんでいくことで、どんどん成長していくというのが撮影所システムという制度のいい点だったのだろうと思う。