王様の映画
2003/4/28
La Pelicula del Rey
1986年,アルゼンチン,101分
- 監督
- カルロス・ソリン
- 脚本
- カルロス・ソリン
- ホルヘ・ゴルデンベルグ
- 撮影
- エステバン・コルタロン
- 音楽
- カルロス・フランツェッティ
- 出演
- フリオ・チャベス
- ウリセス・ドゥモン
- ビジャヌエバ・コッセ
映画監督のダビは、19世紀の半ばアルゼンチン南部のアルカニアとパタゴニアのインディオの酋長たちを統一し国王となったフランス人についての映画を作ろうと考えていた。主役の王様を演じる役者を決めようとオーディションをやるがうまくいかず、街で見かけて皮革商を説得して演じさせることに。順調にロケが始まるかと思った矢先、出資者の一人がヨーロッパに逃げてしまい、とんでもない資金難に。仕方なくすべての出演者を素人にして撮影を開始するが…
アルゼンチンのカルロス・ソリンが映画を作るということを映画にした映画。楽屋オチに陥らず、映画を取り巻く環境というものをうまく描いた作品。
漫然と映画を見ていると、映画というのはあくまで商売だという事実を忘れがちになってしまう。もちろん、いつもそんなことを考えながら映画を見なくちゃいけないということではないけれど、そのことは意外と重要だ。
映画監督というのはあくまで雇われ人で、出資者(とそれを代弁するプロデューサ)の意見をないがしろにはできない。それが映画のテーマになるということが主役のオーディションのシーンで明らかにされる。出資者の推薦する主人公を監督が採用せず、市場で見かけた素人を起用することに決めてしまう。そこからこの映画はどんどん資金難に陥り、自由がきかなくなっていく。キャスティングの権利を取るか、資金を取るか、監督とはさまざまな制約の中からどれを受け入れるかを選びながら映画を作っていくものなのだ。
しかし同時に、映画とは監督がひとりで作るものではないということも言える。この映画で描かれる監督はあくまでも自分の主張に固執して、どんどん自分の立場を悪くしていってしまう。自分のいうことに従わないやつはいなくていい。そんな専制君主的なところがある。もちろん映画監督とは一面では専制君主的な面が必要かもしれない。一つの巨大なプロジェクトを動かすにはそのような強引さというのが必要になってくるだろう。
でも、それだけでもいけない。ひとりでは映画を作れない。それはひとりでは国を治められないのと同じなのかもしれない。なぜ王が国を失ってしまったのかはわからない。しかし王は「裏切りだ、裏切りだ」と叫ぶばかりで自分のやり方に問題があったかどうかを考えようとはしない。これは監督の態度とパラレルなものに見える。自分としてはみんなのためになることをしているつもりだが、スタッフや国民にとってはそうではない。ふたりのイメージがここでダブる。
この映画はおそらく完全なフィクションなので、そのようにして映画を作ることの何たるかを描こうとしたのだろう。映画には常に制約がつき物で、その制約の中で工夫をしてこそいい作品ができる。基本的にはそのようなこと。どの制約を選ぶかは監督とプロデューサの駆け引きということになる。ハリウッド映画というのはプロデューサの力が強く、監督の力は弱い。でも資金はたくさんあるので、制約の中では自由に作ることができる。
この映画は一種のインディペンデント映画で、制約は少ないけれど資金も少ないという映画の一つだと思う。そのような意味ではソリンの立場はこの映画の中の監督の立場と似ていたのかもしれない。でもソリンはおそらくスタッフやキャストとうまく折り合って、このように面白い映画を撮った。
こんな風に映画の映画としての面ばかり書くと、やはり楽屋オチという気がしてきてしまいますが、この映画の面白さはもっと別の部分、ユーモアや意表をつく画面の美しさにあると思います。ならそれを書けよ。と言われそうですが、それは解説するまでもない面白さだと思うので、あまり面白くもないことをつらつらと書いてしまいました。
という映画評の評なんかも書いたりして。