少女の髪どめ
2003/5/4
Baran
2001年,イラン,94分
- 監督
- マジッド・マジディ
- 脚本
- マジッド・マジディ
- 撮影
- モハマド・ダウディ
- 音楽
- アーマド・ベズマン
- 出演
- ホセイン・アベディニ
- サーラ・バーラミ
- モハマド・アルミ・ナジ
不法にアフガン人を雇っているイランの工事現場で雑用係として働くラティフ、その現場でひとりのアフガン人が怪我をしてしまう。その代わりにやってきたその息子ラーマトは力仕事が出来ず、ラティフに代わって雑用係をすることになり、ラティフは力仕事にまわされる。ラティフはそれを不満に思いラーマトに恨みを持つが、ある日ラーマトが実は女の子であることを知ってしまう…
『太陽は、ぼくの瞳』のマジディ監督による淡い恋の物語。アフガン人難民の問題を一つの大きなテーマもした。
イラン映画というのはもうイメージが固定化されていて、それは少年だったり、何か素朴な、とか、純粋な、とか、そういったイメージによってくくられるようなものが映画の中心になっているし、主人公もそうだったりする。
この映画の主人公のラティフもまさにそのようなキャラクターとして登場する。最初のシーンで抱きあう恋人たちを見てはにかむように笑うところからこの物語はスタートする。それは彼の恋や愛に対する純粋な気持ち、恋に恋する気持ち、そのような気持ちが純粋な形で心に満ちたとき、少年の姿をした少女が現れる。それがひみつであるということも、秘められた想い、ラティフが思い描く恋なるものにはすんなりと当てはまるわけで、そのようにしてこの映画も立派な「イラン映画」になる。
もう一つのテーマとしてアフガン人難民の問題があって、アフガン人がイランで働くのは大変だというのもわかる。そして、アフガンに帰ることもまた苦しいのもわかる。それはおそらくタリバーンに原因があって、そう考えるとやはりタリバーンは決していい統治者ではなかっただろう。しかし、今もその状況があまり変わっているとは思えない。
アフガニスタンが注目されることによってその部分が協調されることになったけれど、アフガン人難民の問題というのはイラン映画の中ではたびたび取り上げられているもので、この映画がことさら特殊というわけではない。もちろん繰り返し取り上げることは重要だけれど、映画として特にそれを描きたかったということはなく、アフガン人難民という要素が映画をよりドラマチックするという意味のほうが強いような気がする。そのような要素も含めて、この映画はやはり純粋さや素朴さというものが映画の前傾に強く出てくるように作られているように思える。
もちろん、イラン映画のすべてがそのような純粋さとか素朴さをテーマにしているわけではないけれど、外国(主に西洋)にも向けられたイラン映画にはそのようなイメージが現れてくる。それはイラン人が自分たちを見つめて、それを西洋人にもわかるように表現するとそうなるということであって、必ずしもすべてがそうなわけではない。西洋的な視点からはなかなか理解することが難しい『カンダハール』のような映画もあり、そこでは価値観とか生活観とか、世界観が西洋とは根本から異なるイランが描かれる。
この映画でも道端で靴の修理をするおじいさんあたりが、そのようなものとしが少し出てくる。そこから終盤にかけて、平たく言えば幻想的というか、非現実的というか、そのような場面がちらほらと見える。ただ、それは気づかずに見過ごそうと思えば見過ごせる程度のもので、やはり素朴さや純粋さというもののほうが映画の中心にドンと据わっているイメージがある。
もちろん、そんないわゆる「イラン映画」も面白いんだけれど、これだけイラン映画というものが世界に認められてきて、日本にも毎年毎年たくさんではないけれど入ってくるようになったのだから、もっと違うもの、もっと生々しいもの、もっとイランというものの姿が伝わってくるものを見たいと思う。