エルミタージュ幻想
2003/5/7
Русский Коъцег
Russian Ark
2002年,ロシア=ドイツ=日本,96分
- 監督
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 脚本
- アナトリー・ニキーフォロフ
- アレクサンドル・ソクーロフ
- 撮影
- ティルマン・ビュットナー
- 音楽
- セルゲイ・エフトシェンコ
- 出演
- セルゲイ・ドレイスデン
- マリア・クヅネツォワ
- レオニード・モズガヴォイ
- ワレリー・ゲルギエフ
- アレクサンドル・ソクーロフ(声)
カメラである主人公がふと気づくと19世紀の扮装をした人たちが集う場所にいた。どうやら舞踏会が開かれるらしい。その彼らは彼の存在に気づかずどこかへと進んでいく。そんな彼の前に彼のことが見える一人の男キュスティーヌ伯爵が現れる。彼もどこからか迷い込んだらしい。カメラの男と伯爵はエルミタージュの中を進みながら、気づくとそれはロマノフ朝の歴史をたどるになっていた。
現代ロシアを代表する監督ソクーロフが最新のビデオ技術を駆使して、90分1カットというとてつもない作品を作り上げた。これは90分という壮大な長さにわたる1帖の絵巻物。一つの歴史物語としても面白いし、エルミタージュの美術品を含めたその映像の迫力もすごい。
この映画はすごい。いろいろすごいところはあるけれど、まずエルミタージュがすごい。建物の内装、存在感、置かれている作品、空間、色合い、などどれをとっても圧倒的な美しさを持つ。そこにロシアの歴史があるということが映像を見るだけで実感としてわかる。
物語の語り口もすごい。時代をどんどんジャンプしていきながら、説明じみた言葉は一度も吐かず、会話やモノローグからその時代背景と登場する人たちを説明する。そして映画によって切り取られた場面がロシアの歴史にとってどのような意味があるのかをさらりと伝える。
もちろんこの映画が1カットであるというのもすごい。何百名もの登場人物の動きが綿密に計算され、それを撮影するスタッフの動きが計算される。そのように技術的に困難な中でも、それだけではよしとせず、そこに内容を求めるそのソクーロフの姿勢はすごい。
それにしても、1カットという事実にはかなり圧倒されます。「長まわし」というものが作家性の証明のように言われるようになってはや30年ほどたち、すでにそれだけでは驚きともならず、果たしてそこに作家性を見ることができるのかという疑問すら浮かんできたところに、この90分1カット、従来のフィルムでは10分程度しか費やせなかった1カットの時間(中には巧にフィルムを入れ替えて10分以上の1カットを撮った監督もいた)をついに映画1本にまで引き伸ばしたのということで、この映画はすごいといわれるけれど、私が思うに「長まわし」などというものはすでに使い古された当たり前の技術の一つでしかない、というソクーロフなりの主張なのではないかという気がする。
デジタル技術によって高画質で長時間の録画が可能になり、しかも知れがステディカムによってひとりのカメラマンが担いで自在に動けるくらいのサイズになる。あとはカメラマンの腕と綿密な撮影プランさえあれば可能な1カットの時間は際限なく伸びていく。そして、あるいはデジタル撮影された映像は撮影の時点ではカットが切られていたものでも編集の段階で加工すればあたかも1カットで撮影したように見えてしまう。
そのような状況では「長まわし」であることが即すごいということにはならない。長まわしだというだけでそこに何か優れたものがあると考えるのはすでに錯誤に過ぎなくなっている。
むしろ、長回しをすることによって継ぎ目がなくなり、平板になってしまった映像にどのようにリズムを与え、どのようにその流麗さを利用するのか、そこにこそ作家性が見られるようになる。ソクーロフは重要なのは技術ではなくあくまでも中身なのだと技術的に困難な作品を作ることによって語りかけてくる。
私が印象に残っているのは「さよなら、ヨーロッパ」ということば、ソクーロフであるカメラがキュスティーヌ伯爵に吐く言葉ですが、そこまでずっとロシアがいかにヨーロッパを模倣し、ヨーロッパのものを買い入れてきたのかが語られるだけに、「さよなら、ヨーロッパ」という言葉は耳に残る。そして、「これが生涯最後の舞踏会になる気がするわ」という言葉。この映画がロマノフ王朝の歴史である以上、その幕切れはロシア革命にあることはわかっていることだから、この映画はソクーロフなりにロシア映画を解釈しようという映画であると考えることができるだろう。ソ連時代には自作がことごとく公開禁止となっていたソクーロフが、ロシア革命に対して持っている解釈とは何なのか。それは単純なものではないと思うが、「さよなら、ヨーロッパ」ということばが最も象徴的にそれを示しているような気がする。単純化していってしまえば、ヨーロッパとの決別であり、しかしそこには一抹の寂しさと不安が存在するということ。
まとまりがありませんが、最後にもう一つ。私はこの映画はある一面ではこの映画の出演者やスタッフたちのドキュメンタリーであるとも思います。映画の中に映画を撮影する人たちの息遣いが移りこんでいるような家が。劇映画にとってそれはマイナスなのかも知れないけれど、映画というのも人と物理的につながってこそ魅力的なものなのであって、劇映画であると同時にそれを作った人々のドキュメンタリーとも感じられるというのは、撮影のプロセスと鑑賞のプロセスが非常に近い感じがして、見る者と映画の間にも物理的なつながりが出来るような気がする。