都会の叫び
2003/5/9
Cry of the City
1948年,アメリカ,95分
- 監督
- ロバート・シオドマク
- 原作
- ヘンリー・エドワード・ヘルサス
- 脚本
- リチャード・マーフィ
- 撮影
- ロイド・エイハーン
- 音楽
- アルフレッド・ニューマン
- 出演
- リチャード・コンテ
- ヴィクター・マチュア
- シェリー・ウィンタース
警官を殺して怪我をし、病院に運ばれたらしい主人公のもとに、その夜、女が訪ねてきて、寄り添い涙する。翌日、警察に女のことを訪ねられるが、彼は知らない女だという。警官は帰っていくが、警察の帰ったあと看護婦に女の名をつげ、その女を助けてくれるよう頼んだ。そしてもうひとり、別の事件の犯人の弁護士がやってきて、彼にその事件の犯人になってくれるよう話を持ちかけた…
典型的ともいっていいフィルム・ノワールの映画の一つ。いわゆるフィルム・ノワールの一つ。監督も職人的なにおいのする監督といえる。
映画には流行がある。今はワイヤーアクションの映画ばかりがぼんぼん作られ、映画の内容はどれも似たようなものだが、それがそれなりにヒットしてしまう。この時代、その流行はフィルム・ノワールで、似たような映画が作られ、多分それなりにヒットしていた。この映画もそんなフィルム・ノワールの一つ。フィルム・ノワールというとフリッツ・ラングなんかのビッグネームの名がすぐ浮かぶが、その影にはたくさんの無名の監督がいて、フィルム・ノワールといわれる作品を作っていた事は確かだ。
この作品は何かと区別に面白いものがあるわけではない。プロットもまあまあ面白く、出てくる人たちもまあまあ、何か映像に凝ったり、カット割が斬新だったりするわけでもなく、激しいアクションがあるわけでもない。しかし、こういう映画だからこそ映画の基本というか、映画というのがどういう要素で成り立っているのかということがよく見えるということはある。
たとえば音、この映画に使われる音楽は主人公の心情を審らかにする。それもわかりやすく、特に顕著なのは主人公が恐れ緊張している場面でまさにそのような音楽をはめる。映画を見ているときに音楽を意識することはあまりないが、このようにあまりに露骨に音楽が道具として利用されていると、それに意識的になり、他の映画でも使われていたというあやふやな記憶がよみがえってくる。
物語のほうはといえば、一人の人間が人生を転落していく物語、これもフィルム・ノワールにありがちな話。しかし、この主人公は映画の中で景観殺しの犯人とされ、本人も認めているにもかかわらず、その殺しのシーンは映像としては提供されず、また具体的にどのような事件だったかも話しに上らない。これによって、主人公が殺人を犯した理由がわからず、もしかしたらやむをえない事情があったのではないかという可能性が残される。仕方がってこの主人公は今のところ悪人であるが、もしかしたらどこかでヒーローに変わるかもしれないという可能性を感じさせるものとして存在することになる。
この映画はとりあえずサスペンスで、展開はスピーディーとはいえないが、そのような複数の可能性を孕みながら進むという点で面白みがある。サスペンスというのは先がわからないから面白いわけで、行く先の可能性が多ければ多いほど先がわからない。なので、この映画もそのような可能性を残すことで面白みが生まれるのだ。これも普通にサスペンス映画を見ていたら頭に浮かぶことはない話だ。ドキドキはらはらに引きずられて、構造を冷静に分析するなんてことはない。しかし、この映画を見てそれに意識的になると、他の映画のプロットの構造にも意識がいったりする。
そのような意味でこの映画は興味深いわけだけれど、果たして一本の映画、一本のサスペンス映画としてどれくらい面白いのかといえば、中の上と言うほかないのかもしれない。50年の時を経ても残ることができたフィルム・ノワールの映画のひとつ。それだけで十分見る価値のある映画だと思うが、それ以上ではないのかもしれない。