マイケル・コリンズ
2003/5/11
Michael Collins
1996年,アメリカ,133分
- 監督
- ニール・ジョーダン
- 脚本
- ニール・ジョーダン
- 撮影
- クリス・メンデス
- 音楽
- エリオット・ゴールデンサール
- 出演
- リーアム・ニーソン
- エイダン・クイン
- アラン・リックマン
- ジュリア・ロバーツ
激しい独立の戦いを繰り返して来たアイルランド、1916年またも戦いに敗れ、指導者たちは捕まり、銃殺されてしまった。そんな中で新たに独立運動の指導者のひとりとなったマイケルは、ある夜、何週間も付けまわされたGメンを捕まえ詰問すると、彼はマイケルの演説に心動かされて情報を提供しようとしていたんだと語った…
1916年のイースター蜂起のあと、アイルランド独立運動の中心的人物となったマイケル・コリンズの生涯を描いた物語。アイルランド出身のニール・ジョーダン渾身の大河ドラマ。
ミック(マイケル・コリンズ)は映画の最初のほうで「憎しみをなくすために戦争をするんだ」というようなことを言う。しかし、戦争によって憎しみがなくなるなんてことがありえるのか。この映画は一貫してアイルランド側の視点に立ち、マイケル・コリンズの一人の英雄として描く。そこには基本的にはアイルランドを善、イングランドを悪とする二項対立があるわけだが、そのような対立構造の中で戦争を描くならば、「善」は「悪」に憎しみを抱き続けるしかない。そして、「悪」の側は一貫して憎まれる役回りであり続けるしかない。そこにあるのは憎しみの連鎖であって、憎しみがなくなるという事態であるはずはない。
マイケル・コリンズの取った作戦は「敵を無視する」というものだった。これは二項対立の片方をないものとすることで、それを存在しなくさせる形だ。もしそれが可能ならば、そこで二項対立は崩れるのかもしれない。しかし、無視しても無視しても的なる者は存在し、二項対立も存在し続ける。そこで憎しみが増幅され続け、ラグビー場に装甲車が乱入してきたりという事態が起こる。
それに対して、デ・ヴァレラは対立は対立として受け入れて、対立し続けながら、そこから生まれてくるエネルギーを利用しようとする。そのやり方では常に対立することが必要であり、敵が必要になる。敵と対峙することによって初めてやるべきことが生まれるというような対立ありきの考え方。だからこの二人の考え方が合致することは決してない。最初は物分りのよいインテリのように見えたデ・ヴァレラが徐々にどのような人物であるかがわかってくるにつれ、そんな印象が強まっていく。
この映画は憎しみや敵という点だけとっても非常に複雑なものを抱えている。7世紀にわたる支配や、今も残るアイルランドとイギリスとの関係、など実際に複雑な問題を抱えているだけに、このわずか80年前の出来事を客観的に描くことができないというのが正直なところだろう。しかし、アイルランド出身であるニール・ジョーダンはこのことを描きたいと切に思い、熱意を持って脚本を書き、映画化した。彼のマイケル・コリンズに対する思い入れはわかる。しかし、正直言えば、描ききれていないと思う。中途半端に恋愛の話をプロットの一つとして入れてしまったというのもなんだか物語を薄める要素になってしまっているし、それがジュリア・ロバーツというのもなんだかハリウッドの商業主義が垣間見えていやだ。
アメリカでのうのうと暮らしているアイルランド出身の監督が、あくまでハリウッドの文法にのっとって映画を撮ったら、どんなに深刻で、自分自身にとっても重要な問題を描いても、この程度の迫力にしかならないということの証明になってしまったような気がする。
映画として面白くないわけではない。しかし、それはハリウッド映画としての面白さであって、一つの歴史物語として、あるいは社会的なメッセージを持つ映画として、あるいは現代を考える上で何かヒントを与えてくれる哲学的な映画としての面白さではない。
ちょっと大上段に構えすぎたという感じでしょうか?