バーバー
2003/5/19
The Man Who wasn't There
2001年,アメリカ,116分
- 監督
- ジョエル・コーエン
- 脚本
- ジョエル・コーエン
- イーサン・コーエン
- 撮影
- ロジャー・ディーキンス
- 音楽
- カーター・バーウェル
- 出演
- ビリー・ボブ・ソーントン
- フランシス・マクドーマンド
- ジェームズ・ガンドルフィーニ
- アダム・アレクシ=モール
- マイケル・バダルコ
- スカーレット・ヨハンソン
時代は第二次大戦直後、カリフォルニアの田舎町サンタローザで床屋をやっているエド・クレイン、相棒で義弟で店のオーナーのフランクが一日中しゃべり通しなのとは反対に無口な男。妻のドリスは小さなスーパーで経理係をやっており、友人でもある上司のエドと不倫をしている。そんなある日、床屋にドライクリーニングの店を開く出資者を探しているという男がやってくる。床屋から抜け出したいと思っていたエドはチャンスと考え、資金の1万ドルを捻出する策を考え出すが…
毎回趣向を凝らして観客をコーエン・ワールドに引き込むコーエン兄弟の作風は相変わらず。モノクロの映像という特色に加えて、人物描写に深みが出ていていい。
コーエン兄弟というのは思いついた面白いアイデアをすんなりと映画にしてしまうところ。たとえば『ファーゴ』の「変な顔」でスティーヴ・ブシェミがすっかり有名人になってしまったように、派手ではないちょっとした工夫で強い印象を与える。それはこの映画がハリウッド映画でありながら、ハリウッド映画の紋切り型の描写をどこかで裏切るからだろう。それは当たり前に映画を見ていると、見逃してしまう普通だったらおかしいけれど映画においては常識的なことを裏切るということだ。ハリウッド映画の紋切り型は裏切るけれど、自分の日常生活に立ち返ってみると、コーエン兄弟の描き方のほうが正しいというか、自然であるというようなそんな描写がコーエン兄弟の映画を魅力的にしている。
この映画でそんな裏切りが感じられるのは、人物の描き方。ハリウッド映画は基本的に一つの人物像が決まると、それが裏切られることはあまりない。あるとしたら、それが映画にとって重要なトリックになっている場合で、本筋と関係ない人が意外な人間性をあらわすということはあまりない。しかし、この映画はいろいろな人がいろいろな一面を見せる。それはこの映画が基本的にエドの一人称で語られていて、人物の描写もエドの主観によっているからだろう。登場する人々の人物像というのもエドの印象から構成されているから、それが覆されるのは日常生活に当てはめてみれば当然のことだ。
一般的なハリウッド映画はそんなリアリティよりもバーチャルなリアリティ、スペクタクルとしてのリアルさを求めているから、本当にリアルな人間というのは必要とせず、その映画の間安定したキャラクターとして存在してくれる人間を配置して映画を作り上げる。登場人物たちは映画にとって必要な一面以外の面は決して見せようとはしない。
スペクタクルとしての映画はそれでいいといえばいいのだけれど、それがまったくの虚構であって、リアルな日常生活とまったく何の関係もないのだということをわれわれは忘れがちである。そのようにしてわれわれはハリウッド映画によってリアリティをどんどん奪われていってしまっているのだということは実は重要なことだと思う。映画館を出て、日常に戻れば、そのバーチャルな世界からは抜け出せるとわれわれは考えるが、本当にそうなのだろうか? 映画館に行くたびにリアリティを奪われていってしまっているのではないか? 最近ハリウッド映画を見るたびにそんな危機感に身を震わせる。
この映画はハリウッド映画のそんな性質をさらりと思い出させてくれる。この映画自体もハリウッド映画でありながら。しかししかし、この映画は主人公のエドが意外な一面を見せることはない。エドの一人称であるのだから当然といえば当然なのだが、それはこの映画もまた一つのバーチャルな(アンチ)ヒーロー譚となりうる危険性を示しているのだ。ある種のフィルム・ノワールのようなハードボイルドなドラマ。
それはハリウッド映画であらんがために観客に一つの逃げ場を用意したのか、それともコーエン兄弟もやはりハリウッドの作家であるということなのか。本当はエドが自分自身の意外な一面に裏切られてもよかったはずだ。
ゆっくりのように見えて意外に速いこの映画のスピード感が、主人公に対する観客のそのような内省を防ぎ、結局観客を映画に巻き込んでしまっている。そこがやはりこの映画がハリウッド映画であるということなのだろう。コーエン兄弟の映画はどこかでハリウッド映画の紋切り型を裏切りながら、ハリウッド映画の範囲からははみ出ない。その微妙なバランスの上に成り立っているのだと思う。