ピアニスト
2003/5/27
La Pianiste
2001年,フランス,132分
- 監督
- ミヒャエル・ハネケ
- 原作
- エルフリーデ・イェリネク
- 脚本
- ミヒャエル・ハネケ
- 撮影
- クリスチャン・ベルジェ
- 音楽
- 出演
- イザベル・ユペール
- ブノワ・マジメル
- アニー・ジラルド
- アンナ・シガレヴィッチ
- スザンヌ・ロタール
40代で独身、ウィーン国立音楽院のピアノ教授のエリカはアパートで母親と二人暮しだが、その母親はまるで20代の娘を扱うかのようにエリカに厳しく接し、エリカは母親に愛憎入り乱れた気持ちを持つ。エリカはある家で開かれた演奏会に招かれ、そこで青年ワルターと出会う。そこでは互いに軽く会話を交わしただけだったが、ワルターはエリカを強く思うようになり、音楽院の試験にやってくる…
カンヌ映画祭でグランプリ・女優賞・男優賞を受賞した重厚な恋愛ドラマ。会話よりもピアノの旋律やその間、表情、背中に言葉を語らせるまさにヨーロッパ映画らしい静謐で荘重とした物語片。
映画は親子の諍いから始まる。もう40代という娘とその母親が、まるで高校生か大学生の娘と母親であるかのようないい争いをする。ここで明らかにされるのはこの映画が抑圧され続けた娘の物語であるということだ。子供をピアニストにしようという親にありがちな抑圧関係。それは日本でもヨーロッパでも、時代が変わっても同じことであるようだ。そんな抑圧を一身に受け、ただただピアノ教師として生きるエリカ、母親はまだエリカがピアニストとして世に出ることを夢見ているようであることがその悲劇を倍化させる。
その抑圧関係はエリカの生徒の一人であるアンナとその母親の関係にも顕れている。だから、エリカとアンナの関係というのはあんなに取っては自分と過去の自分の関係でもあるわけで、素直にいけばここに映画の重点が置かれてもいいはずの部分になる。
しかし、映画の中心になるのはそのような関係ではなく、抑圧され続けてきたエリカの性的な部分。日本では「癒し」という言葉がもてはやされて久しいが、この映画も一人の青年の登場によって、癒される中年女性という物語になるかと思わせる。しかし、その期待も裏切って、映画はどんどんと重苦しい方向に進んでいく。抑圧によって下意識に押し込められた欲望が、ゆがめられた形で「変態性欲」として立ち表れてくるという、フロイト的なドラマ。
たびたび精神病というものに言及されることから見ても、このドラマは結局のところ現代の狂気というものをテーマとした映画ということになる。残念なのは狂気に陥る原因を母親による抑圧という一点に絞り、そこに1対1の因果関係律を設定してしまったことだ。狂気の原因というのはそんなに単純なものではなく、現代の(平凡な)狂気を描くなら、もっと複雑な要因がそこにあったと考えるほうが自然だ。
母親に抑圧という原因に重点を置くのか、狂気の結果として起こってきた青年とのある種異常な関係を描くのか、そのどちらかに力点をおくのではなく、どちらも描こうとし、しかもそれを区別することなく混ぜ込んでしまったためにこの映画は全体にわかりにくさを伴ってしまう。
複雑さを複雑なまま提示するのではなく、物語化するために単純化しているのだけれど、ある部分は単純でありながらある部分は複雑なままという描写の仕方に何か欠損のようなものを感じてしまう。
ピアノの旋律と鍵盤を真上から映した描き方はこの映画の白眉であると思う。この映画が狂気というわかりにくい素材を扱い、そのせいもあってさまざまなところで問題が問題として投げ出されたっきりになってしまっているにもかかわらず、ある程度のまとまりを持ちえたのは、この映画が何か理解を超えたものを描くという一貫した姿勢が感じられるからだ。狂気も理解を超えたものの一つであるが、音楽も、そしてシューベルトも理解を超えたものとしてある。シューベルトについてなら何でもわかるといっているエリカはそこですでに常人の理解を超えた狂気の領域に踏み込んでしまっているのかもしれない。
と、考えると、表面的な描写の奥にさらに狂気の構造の複雑さというものが深くあるともいえるのかもしれない。