D.I.
2003/5/30
Divine Intervention
2001年,フランス=パレスチナ,94分
- 監督
- エリア・スレイマン
- 脚本
- エリア・スレイマン
- 撮影
- マルク=アンドレ・バティーニュ
- 音楽
- ロルフ・ケント
- 出演
- エリア・スレイマン
- マナル・ハーデル
- ナーエフ・ダヘル
- ミシェル・ピコリ(声)
イスラエル北部の都市ナザレで、なぜか若者たちに追いかけられているサンタクロース、追いついてみるとサンタクロースの胸には包丁が刺さっていた。という奇妙なエピソードから始まり、父親が税務署に工場や車を差し押さえられた男の話へと移行する。その父親の暮らす家の周りには奇妙な人たちが暮らし、コミカルな出来事が次々起こる。
イスラエル国籍を持つパレスチナ人であるエリア・スレイマンが監督・脚本・主演を努めた社会風刺コメディドラマ。イスラエルとパレスチナの問題を婉曲的に、しかし辛辣に指摘する。2002年のカンヌ映画祭で審査員賞と国際批評家連盟賞を受賞した。少々退屈な感もあり、全体的に不思議な印象の映画であるため、何も感じない人は感じないだろうが、この映画からいろいろなものを感じられる感性を持っていたいと思った。
パロディというのはもとはといえば一種の風刺で、面と向っては言えないことがパロディ化して、笑いに包むことによっていえるようになる。そのような効果を持っている。この映画はそんなパロディの根源的な部分を掘り起こし、パレスチナ問題という今世界でもっとも深刻な問題の一つといえる問題を笑いに包む。そして、それがイスラエル側に視点が置かれているにもかかわらず、全体的にはパレスチナの側に味方するような観点を持つことでさらに複雑化し、複層的なメッセージを送る。
非常に印象的だったのは、物語の最後のほうで、車をめぐるいざこざで「彼は車を洗いたかっただけなんだ」といった言葉。これだけでは何のことやらわからないが、つまりいつまでも止まっている車があって、どいてくれといっているのに悠長に車を洗っていて、それに怒り心頭した語り手が車の持ち主の肋骨を折ってしまったという話で、その語り手はそれを悪かったとか、あいつが悪いとか、いうわけではなく、ただ「車が洗いたかっただけ」だという。それは、このイスラエルとパレスチナのこじれてしまった関係も、そんな小さな行き違いが発端だったのだということを示唆しているように見える。
たとえば、車を洗いたかった人がパレスチナ人で、それにイライラしている人がイスラエル人だとする。車を洗っているパレスチナ人にとってはそれをまっていることなどどうってことではないと感じたけれど、待っているイスラエル人には永遠に近い時間に感じられた。というそんな行き違い。大きくいってしまうと文化的差異ということになってしまうけれど、この映画はそのように自体を大局的に見つめてしまうことにも警鐘を鳴らしているのではないだろうか。
それは、検問所でひとりの女性が悠々とイスラエル側に歩いて抜けていくシーンに象徴的に表れているように思える。彼女は殺してしまえばそれは「数」あるいは統計でしか捉えられることのないもの。しかし、それが生身の人間となって現れたときに、どう反応するのか、象徴的なアラブ人、「1」という数字ととらえて、即座に殺すことができるのか。それとも、「人間」として殺すことを躊躇するのか。戦争とは敵側の人間をモノ化し数字化するものだ。しかし、その敵と対峙する一人一人の人間の立場に自分をおく想像力を働かせて見ると、敵は決してモノではないし数字でもない。そこの想像力を持ち続けることが大事だとこの映画はいっているような気がする。
主にニュースを通じた統計によってしか現実を把握できないわれわれはそのような想像力を失いがちである。爆弾テロによって死亡した30人の人々、誤爆によって死亡した数百人の人々、アメリカ軍の数十人の犠牲者。トランプのカードの数字をふられたフセイン政権の幹部、そのどれもが数字化され、モノ化された人々だ。しかし彼らも人間である。といってしまうと嘘っぽくなってしまうが、やはり「彼らも人間であるのだ」と本当に思っているのか、改めて考えてみなくてはならないような気がする。
映画の終盤は見た人だけの楽しみということで、書くのをやめますが。これまたある種のパロディで、その矛先はハリウッドへ向いている。そこもなかなか皮肉が効いていておもしろい、とだけ書いておきます。