炎上
2003/6/6
1958年,日本,99分
- 監督
- 市川崑
- 原作
- 三島由紀夫
- 脚本
- 和田夏十
- 長谷部慶治
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 黛敏郎
- 出演
- 市川雷蔵
- 仲代達矢
- 中村鴈治郎
- 浦路洋子
- 新珠三千代
- 中村玉緒
国宝である驟閣寺を焼いたということで捕まった寺の徒弟である溝口吾市、黙秘を続ける彼が放火するにいたるまでを回想する物語。もともと舞鶴の寺で生まれた吾市は父親の死後、友人であった驟閣寺の住職のもとに預けられることになった。驟閣を愛した父への想いから驟閣に並々ならぬ愛情を注ぐ吾市だったが、どもりである彼は周りの人にはなかなか心を開こうとはしなかった。
三島由紀夫の「金閣寺」を市川崑が映画化。映画制作時に金閣寺側ともめ、撮影に使用することも、名前を使うことも拒否されて、寺の名前は驟閣に、映画のタイトルも『炎上』と改めた。モノクロの暗い画面の中で若き市川雷蔵の演技が光り、宮川一夫のカメラが冴える。日本的“美”を感じさせる佳作。
暗いです。古い日本映画というと、フィルムが劣化していて画面の周りが黒っぽくなっていたりします。この映画は決してそんなに古い映画ではないはずなのに、終わってみるとそんな暗さがあったような気になってしまいます。もちろんモノクロで、光の量を落としてあって、内容も暗いので、映画として暗い印象になるのは仕方のないことですが、とにかく暗い。市川雷蔵演じる主人公の吾市も暗ければ、仲代達矢演じる準主役の戸苅がそれに輪をかけて屈折していて、暗い。唯一明るさを投げかけるのは終盤にちょこっとでて来る中村玉緒くらいのもの。お寺という設定も暗いし、終盤に行くにつれ夜のシーンが多くなってくるのもまたまた暗い。
と、とにかく暗いモノ尽くしの映画なわけですが、名カメラマン宮川一夫が意味もなくただただ暗い場面を続けるわけもなく、この一貫した暗さは最後の驟閣が炎上したときの炎のはっとするような白さのための長い長い伏線なのではないかと考えます。そのような描き方をして始めて吾市の内面が映像によって表現できる。暗く孤独な人生を送ってきた吾市がなぜ驟閣を燃やさなければならなかったのか、それを言葉ではなく映像で表現するためにはこのような暗さと、明るさとはいうことのできない、炎の白さ(そのためにはこの映画はモノクロでなければならかった)がどうしても必要だったのだと思います。
撮影側としてはそのような構想があったと思いますが、シナリオのほうからすると、吾市と対峙するものとしてさらに暗いキャラクターである戸苅を配置することが重要だったろう。ただただ自己に閉じこもる吾市の内面を戸苅というキャラクターを通じて表面化する。そしてそれは単純な鏡像やネガという形ではなく、さまざまな矛盾をはらみながら時には一致し、時には相反するような形で、しかもその関係性が映画の進行とともに変化するようなものとして描かれる。
そのあたりの粘っこさに市川崑らしさを感じるが、しかしやはりそれはそもそもの三島由紀夫の原作から授かったものでもあるわけで、この映画は決して市川崑の映画にはなりきれておらず、三島由紀夫と金閣寺の影を引きずりながら、三島由紀夫の作品の映画化というレベルを(和田夏十の脚本の手を借りても)乗り越えることができなかったといわざるを得ないかもしれない。
「金閣寺」という小説は何か言葉に出来ないような若者が抱く妄想とか、欲望とか、やりきれなさとか、やり場のない怒りとか、そういうものを抽象的な意味で非文字化したもの。もちろん小説だから文字ではあるけれど、小説を通じて生じる文字から遊離したある種のイメージとしてそのような「言葉にならないもの」を描いたところにそのすばらしさがあると思う。それはドストエフスキーの「罪と罰」にもつうじるものだが、それは余談として、この映画はそのイメージ化された「言葉にならないもの」をそのまま映像としてイメージ化してしまった。それは映像とイメージというつながりやすいものをそのままつなげたものであり、言葉とイメージというつながりにくいものをつなげた原作に比べると深みに欠けるものになってしまう。それによって原作では深みとして提示されていたものが映画ではいやらしさというか、しつこさとして表れてきてしまっている。そのあたりがどうもこの映画がしっくりこない理由だろう。
寺の名前もタイトルも別物となってしまったように、この映画は原作とは別物と考えれば、暗さと美しさが同居するなかなか面白い映画と捉えることもできるのだろうけれど、どうしてもその原作に引きずられてしまって、原作と比べるとどうにも見劣りしてしまうところが問題になってしまうのではないだろうか。