幌馬車
2003/6/7
Wagon Master
1950年,アメリカ,86分
- 監督
- ジョン・フォード
- 脚本
- フランク・ニュージェント
- パトリック・フォード
- 撮影
- バート・グレノン
- 音楽
- リチャード・ヘイグマン
- 出演
- ベン・ジョンソン
- ジョーン・ドリュー
- ハリー・ケリー・Jr
- ウォード・ボンド
ふたりの馬商人トレヴィスとサンディは立ち寄った小さな町で新天地を求めて幌馬車で旅をするモルモン教徒に出会う。モルモン教徒の代表は馬商人に馬を言い値で買う代わりに幌馬車隊の先導係を勤めてくれと頼む。最初は渋っていたふたりだったが、出発した幌馬車隊を追いかけ、引き受けることを告げる。ふたりに率いられることとなった幌馬車隊は、途中見世物師の一団などとであいながら、はるか新天地を目指す。
西部劇の名監督といえばこの人ジョン・フォードの作品の一つ。西部劇というと、カウボーイものやガンマンものを想像しがちだが、ジョン・フォードの作品にはこの作品のような旅ものも多い。かなりハードボイルドで、淡々とした作品だが、カリッとした見ごたえがあっていい。
西部劇というのは基本的に日本の任侠物と同じで義理と人情の世界。そして勧善懲悪、善悪がはっきりと二分されている世界。もちろんこの映画もその例に漏れないが、西部とは道の人々と出会う荒野であるだけに、初めて出会った人々が果たして敵なのか味方なのかということがひと目でわかるわけではない。どこかで敵が味方になり、味方が敵になるのではないかという疑問をはらみつつ、主人公はあくまでも義理人情にあふれたハードボイルドなヒーローであるという前提は崩れないという安心感がある。
だから、本当は西部劇とは人間の物語で、西部という舞台設定があるだけのメロドラマであるのだ。まさに男のメロドラマ。アクションに塗り固められて、ドラマの部分が見えにくくなった西部劇からはみえにくい、西部劇にメロドラマ性というものがこの映画からはっきりと見えてくる。
もちろんアクションに重きが置かれた西部劇もドラマをつまんでみればメロドラマに違いなく、それが映画の中で大きな部分を占めているのだけれど、どうも「西部劇」という塊で見ると、アクションのイメージが圧倒的で、メロドラマ性というものは忘れられてしまいがちだ。
この映画は終盤までほとんどアクションシーンがなく、ただただ荒野を旅するだけの単調なドラマに見えてしまうが、実はこれこそが西部劇に共通するメロドラマ性というものをしっかりと描いた作品であって、典型的な西部劇といってもいいものなのだという気がしてくる。
メロドラマの部分と、いわゆる西部劇的なアクションの部分が渾然一体となって、一つの世界を作り出しているものこそが西部劇の傑作であるというのはわかる。しかし、アクションの部分ばかりを取り出して西部劇の外見を取り繕う映画が多い中で、こういう映画が存在することで西部劇というものの本質が見えてくるのではないかという気がした。そして、その本質とは、単純なメロドラマを越えて、いわゆるヒューマンドラマへとつながっていくドラマトゥルギーをも孕んだものなのだと思う。
荒野があって人がいて、人と人とが関係を持つ。出会う人は基本的に他者であり、敵であるかもしれない。この映画に出てくる、モルモン教徒や先住民や見世物師や悪党や、そういう紋切り型のカテゴリーによって描かれる荒野という世界の全体像はそのカテゴリーから外れた人たちとの出会いの可能性をも示している。たとえば「インディアン=敵=殺人者=野蛮」という図式をこの映画はあえて踏み外し、ぎこちなく恐れとも緊張ともとれる表情をしながら先住民たちと踊るモルモン教徒たちを描く。
そこに今あるヒューマンドラマよりもっと普遍的なヒューマニティがメッセージとしてこめられていると見るのはこの映画を買いかぶりすぎだろうか?(しかし同時にもう一つの紋切り型の先住民像に陥ってしまっているという批判を加える必要はあるだろう)