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パラダイスの夕暮れ

2003/6/17
Varjoja Paratiisissa
1986年,フィンランド,80分

監督
アキ・カウリスマキ
脚本
アキ・カウリスマキ
撮影
ティモ・サルミネン
出演
マッティ・ペロンパー
カティ・オウティネン
サカリ・クオスマネン
エスコ・ニッカリ
preview
 ごみ収集車の運転手をするニカンデルは家の近くのスーパーでレジ係をしているイローナに思いを寄せている。そんな時、同じゴミ収集車で働く相棒が独立しようと思っているという話をニカンデルに話し、協力してくれないかと持ちかける。しかし、その同僚が仕事中に不意になくなってしまい、独立の話は立ち消えに。
 アキ・カウリスマキ監督の長編第3作。マッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンというカウリスマキ映画では不動のコンビが初めてスクリーンに登場した作品でもある。この二人が登場するということはカウリスマキらしい不思議な世界の中のメロドラマ。その元祖がこの作品ということになる。
review
 カウリスマキというと非常に静かで寡黙な印象が強く、この映画もその例外ではないのだけれど、彼の静かさや寡黙さというものは決してシリアスさにつながるものではなく、それがあるときは笑いになり、あるときには深みを持ち、あるときには感情をあふれさせる絶妙の間になる。
 この映画の場合、静かさや寡黙さは主にマッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンの間の感情があふれる間となり、ほとんどセリフがないにもかかわらず、映画と観客の間にコミュニケーションが成立するそのような空間を成り立たせている。
 カウリスマキの映画は画面の静謐さとは裏腹に激しいプロットを持つものが多い。この映画はまさにその恒例で、その激しさはメロドラマとでもいうべきものになっているが、いわゆるメロドラマの饒舌さはなく、カウリスマキらしいセリフを極限までに削った(最近の作品から見ると少し多い気もするが)鋭いメロドラマになっている。

 映画からセリフを削っていくとどうなるのか、普通の映画というのは物語の多くがセリフによって説明される。ひどい映画になると主人公のモノローグがプロットの前提になる事実をくどくどと語ったりする。カウリスマキの映画は、そのような普通の映画なら何往復かの会話があって展開されるセリフの真ん中を削り、最初と最後だけをセリフとして提示する。そこには観客の意表を突いて驚きを生み、新鮮な印象を与える。私がこの映画で一番面白いと思ったのは、物語の終盤ニカンデルがイローナの職場に押しかけ、店長に静止されながらも会話する場面だ。この場面の画面の落ち着きとは裏腹の激しさは笑いを生むと同時に感動をも生む。オフビートの笑いとメロドラマ的感動、この二つが同時に成立しているシーンというのは他では見たことがない。
 今ならもっとメロドラマ的要素を削って、現実に近づける努力をするだろう。カウリスマキの映画は基本的に観客が傍観者の立場にあって、映画の登場人物に没入するようには作られていない。だから、いくら登場人物たちがメロドラマを演じても、それはおかしさを生んでしまう。現実にメロドラマを演じている人たちを私たちが見たら笑ってしまうように、カウリスマキの映画の中でメロドラマを演じる人たちを観客はつい笑ってしまう。そのような仕掛けがあるものなのだけれど、この映画の段階ではカウリスマキも少々メロドラマに肩入れして、観客を登場人物の立場においてしまうこともある。
 そのような事実の一つとして注目したいのが、映画の中盤に出てくるズームアップ。ニカンデルとイローナとが部屋の中で会話をしていて、イローナが部屋から出て行くというときに、イローナが立ち上がったカットのあとニカンデルのバストアップが映り、そこから顔へとズームアップしていく。これが一瞬イローナの視点からの映像のように見える。実際はそうではないのだけれど、イローナの視点からだと思ってしまうところに観客の登場人物への没入の兆しが見える。
 そのように観客を傍観者にとどめておかない傾向があるがために、最近の作品よりもメロドラマ的要素が強いということになるが、それはそれで映画としてとても面白い。
Database参照
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監督順: 
国別・年順: フィンランド

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