モンスーン・ウェディング
2003/6/20
Monsoon Wedding
2001年,インド=アメリカ=フランス=イタリア,114分
- 監督
- ミーラー・ナイール
- 脚本
- サブリナ・ダワン
- 撮影
- デクラン・クイン
- 音楽
- マイケル・ダナ
- 出演
- ナセールディン・シャー
- リレット・デュベイ
- ヴァソンダラ・ダス
- イシヤーン・ナイール
- シェファリ・シェティ
- ティロタマ・ショーム
インドの比較的裕福な一家ヴェルマ家、その一人娘が結婚することになった。相手はアメリカでエンジニアとして働くあったこともない男性。当の娘アディティは恋人もいるようだが、特に結婚を嫌がる風でもない。両親をはじめとしたまわりの人々は結婚式の準備でてんやわんや、そして世界中から結婚式のために親戚が集まってきてさらに賑やかに。
インドの伝統的な結婚式を描きながら、古典的なものと現代的なものが並存する難しさと、家族/一族というものが抱える問題を織り込んだ作品。インド映画らしいところもあるが、基本的には欧米の映画的手法の洗礼を受けた洗練された作品。
実際のインドがどうなのかということはわからないけれど、この映画で描かれているように古いものと新しいものがある部分では共存し、ある部分では衝突しているだろうということは想像に難くない。インドのイメージといえば、一面ではガンジス川、ヒンデュー教、といったいわゆるインド的なもの、もう一面ではコンピュータ技術者を数多く輩出するハイテク国家、そんな二つの面が思い浮かぶ。
この映画はその二面的なるインドを結婚式という一つの伝統的な場において浮かび上がらせる。基本的には伝統的なものを尊重するスタンスをとってはいるけれど、その扱い方は伝統的なやり方には見えない。そこには欧米的価値観が入り込み、伝統的なものはある意味ではノスタルジーの対象として扱われている。
と書いては見たものの、それは真実ではない。やはり当たり前なものとして存在する伝統的なものもあるし、新しいもののように見えて昔からあるものもある。女性たちの着ている服は当たり前のように伝統的なものだ。結婚式だって当たり前のように伝統的なもので、誰もウェディングドレスを着たいなどとは言い出さない。しかし、ヴァランのコックになりたいという夢は伝統的な価値観からは許されない。男は男らしくあれ、女は女らしくあれ、それがインドの伝統であるようだが、果たしてそれは当たり前のものとして受け入れられているのか? この映画においては受け入れられているように見えるのはこの映画の作り手のノスタルジーの産物ではないのか? という疑問が頭をもたげる。
たくさんの人が登場し、その関係もなかなかつかめないが、それだけにさまざまなことが映画の中に入り込み、そのそれぞれを問題として把握していくのも難しい。そこでこの映画は問題となるものをいくつかに絞り込み、観客に提示する。たとえばあったこともない人と結婚するということ、欧米ならばありえないと捉えられそうなこのことをあまり問題としては取り上げない。
むしろそのような結婚によって幸せが産まれることのほうが多いとも言いたげだ。あったこともない人との結婚、あるいは一目ぼれという運命、そのようなものを愛を語る中心にすえるところは、わかりにくいとも言えるほどのあっけなさである。
この文章もわかりにくくなってきたが、どうもこの映画は(現代の)インド的なるモノを欧米の視点からも捉えられるように描いた映画であるように見えるが、単純化されたように見える表層の下にはなんとも捉えがたい本当のインド的現実が存在しているような気がする。しかもその複雑でわかりにくい(と外部の目からは見える)インド的現実を解きほぐそうともせず、投げ出したままにしてある。そこを良しとするか、悪しとするか、それは見る人それぞれの受け取り方だと思うが、私はその部分があって初めて、この映画は表層の部分の作り物じみたところを埋めることができるのだと思った。