ぼくんち
2003/6/21
2002年,日本,115分
- 監督
- 阪本順治
- 原作
- 西原理恵子
- 脚本
- 宇野イサム
- 撮影
- 笠松則通
- 音楽
- はじめにきよし
- 出演
- 観月ありさ
- 真木蔵人
- 鳳蘭
- 矢本悠馬
- 田中優貴
- 岸部一徳
- 今田耕司
関西のようで関西ではないところにある水平島、そこに住むビンボーな兄弟の一太と二太。ある日、買い物に出かけるといって半年間出かけたきりだったかあちゃんが突然姉ちゃんのかの子を連れて帰ってきた。かあちゃんはそのよまた出かけるといったっきり帰ってこず、姉ちゃんと3人暮らしに。一太はピンサロで働いていたというかの子に反発するが、まだ小さい二太はかの子と仲良く暮らしていたが…
ビンボーな家族とそれを取り巻くまたまたビンボーでおかしな人々を描いた西原理恵子の漫画を阪本順治が映画化。原作の雰囲気もなかなかうまく表現し、バラエティに富んだ出演陣のおかげもあって、ギャグ映画としてはかなり笑える。
この映画のテーマは「ビンボー」である。「貧乏」ではなく、「ビンボー」。ビンボーということはどういうことか、それはつらいことなのか、苦しいことなのか、はたまた楽しいことなのか。不景気・デフレで日本人そうビンボー化が進む中、正しい(?)ビンボー像とは何かを語ろうとする映画と見るならばこの映画はまさに時代にふさわしい映画といえる。
私はこの映画の原作の漫画が好きで、原作を読んだ時点で、このお話とビンボーとのつながりについて気づき、その意味を考えていた。それが映画になって、どうなったのかというと、やはり原作のほうが面白かったとなってしまう。
それは、原作はビンボーというものをほとんどの人は体験したことはないけれど、どこかで感じてしまう共通郷愁のようなものを(作者にとっては実体験であるにしても)物語に織り込むことで、ビンボーをイメージ化し、ビンボーだからといって悲惨とは限らないし、ビンボーであっても楽しく生きることもできるし、いいことだってあるということを、描く。それは必ずしもビンボーを美化することではないけれど、「貧乏=悲惨」という図式とは違うビンボー像を作り上げている。それはそこに出てくる人々が非常に魅力的で、ある種の悟りというか、ビンボーではあるけれど、そのビンボーさをどこかで乗り越えた明るさを持っているからだと思う。イメージ化された「ビンボー」は、悲惨さと苦しさを伴う現実の「貧乏」とは違う何かとして読者の心にしみこんでいくわけだ。
で、この映画のほうは、そのビンボーであっても楽しく生きることができるという価値観、ビンボーであってもそれを乗り越えた明るさを乗り越えた人々という点では原作をうまく踏襲し、サイバラ的世界をうまく映画の世界に織り込んでいる。しかし、映画化する段階で、その世界はイメージ化されたビンボーの世界であることを超え、どこかテーマパーク化されてしまった。
原作では魅力的な登場人物たちは「存在」としてその物語の中にいるのに、映画では「イベント」として物語の中に現れてくる。それはビンボーである日常の一ページを切り取ったものではなく、ビンボーである日常に起こる(珍しい)イベントの集積になってしまっている。そしてそのために登場人物たちは魅力的というレベルを超えてタダの「バカ」になってしまっていることも多い。(物語の舞台が島という一つの閉鎖された空間であることもテーマパークかされているという印象を作るひとつの要因になっているだろう。原作では舞台は島ではなかったと思う、多分。)
もちろん、映画として2時間くらいの尺にまとめなくてはならず、そこに起承転結をつけねばならないという事情はある。そして、この映画の織り込まれているギャグはかなり面白い。ギャグの面白さは原作は、あるいはそれをしのぐかもしれない。しかし、そこを強調し、キャラクターを誇張し、日常をイベント化することによって原作の持つもう一つのよさが失われてしまっているような気がして残念でならない。
それは、この映画ではビンボーはイメージ化されきっておらず、われわれの日常、われわれの郷愁に訴えかけるようなものではなく、日常から離れたどこか別の世界のお話であるように見えてしまうということだ。もちろん原作が行っているビンボーのイメージ化が生むものも必ずしもいいことばかりではないのだけれど、それは映画とは別の話、どこか別のところで別の機会があればまた書きます。でも、映画を見たら、ぜひ原作を読んでその違い、その面白さを考えて欲しい。と思います。そういえば、原作者のサイバラ理恵子さんもピンサロ嬢(?)の役で映画の中に1カットだけ、セリフ1つだけで数秒登場していました。