眠る右手を
2003/6/29
2002年,日本,208分
- 監督
- 白川幸司
- 脚本
- 白川幸司
- 撮影
- 井川広太郎
- 音楽
- 小松清人
- 出演
- 草野康太
- 山崎君子
- 平井賢治
- 沖本達也
- 斉藤剛
- 二見林太郎
- 藻羅
- 岸燐
セラピストのケイと画家のシンの間にはコウというひとり息子がいる。シンは病気のせいで右手の親指を失い、右手が動かなくなってしまった。そして壊死が体中で進んでいる。コウはまったく声を発しない。その家に5年前から失踪中のケイの兄カイの妻サチが尋ねてくる。サチは聾唖者でいつもクビからぶら下げたメモ帳でしか会話が出来ないが、ケイはそんなサチにやさしく接する。
一方、ロウとソラというゲイのカップルがいる。ロウはゲイバーのママで、同居しているソラはロウの世話を焼いている。そのバーの常連にケンケンという青年がいて、いろいろな男とねまくり、ロウとも肉体関係を重ねていた。
そんな中、徐々に病状が進み、ひとりで生活するのがつらくなってきたシンの介護にソラが雇われることになった。
実験映画を数々の映画祭に出品してきた白川幸司監督の初の一般公開作品。実験映画の技術的な部分を残しながら、ひとつの物語としてもうまくまとまった作品。3時間半というかなりの長尺で正直疲れるが、見ごたえは十分、今後の日本映画の一つの可能性を感じさせる作品である。
映画が始まってしばらくは、映像の加工(いわゆる“実験映画的”な映像や、ストップモーション、スローモーションなど)やサウンドの強調・加工が過剰気味という感じで、なんだか実験映画なのかという感じだが、映画が進むにつれてそれにも徐々に慣れてくる。慣れてくるとその過剰な映像やサウンドが映画にリズムを生んで見る側もそのリズムに乗ることができるようになる。
中盤に入るとその過剰な細工は徐々に陰を潜め、映画のストーリーもそれと呼応するように落ち着いていく。そこで観客は何かふわっとしたものに包まれて、映画に浸ることができるのだと思う。主要な登場人物たちが(特にソラの存在によって)癒されて、序盤のとげとげしい雰囲気とはまったく違うやわらかい雰囲気が映画の全体を覆う。
しかし、終盤再びその過剰な細工が現れてくる。それはとげとげしさの再来でもあるが、そのとげとげしさを抱える人たちが序盤とは変わってくる。映画の流れからすると、そのようにしてとげとげしさを抱えた人もまた癒され、最終的には皆が癒されてめでたしめでたしとなるのかという予想も立つが、結末は…
結末はさておいても、表面的な映画表現(映像と音)と語られているもの(物語、登場人物の心理などなど)がうまい具合に組み合わさって一つの流れを作っているところがこの映画のいいところだと思う。実験的な映画表現というのはとかくそれだけが一人歩きして、物語やら劇中人物から遊離してしまう傾向がある。この映画はそのような実験的な表現を見事にドラマの中に溶け込ませている。そのあたりがこの映画の非常に優れた点であり、こんな表現が出来れば日本映画にも新たな可能性が生まれてくるのではないかという希望が湧いてくる。
実験的な手法を持った映画というのはとかくわかりにくくなりがちであるが、この映画は基本的にはわかりやすい映画である(あるいは決して難解な映画ではないと言い換えたほうがいいかもしれない)。確かに登場人物も多く、人間関係は複雑で、抱えている問題も複雑で、心理的な変化もあるという点では把握しにくい点があるにはある。しかし、映画の部分部分では観客に迷いが生じないようにエピソードを組み立ててある。
それは、ある一つの投げかけ(疑問や提題といったものでは必ずしもないが、ある場面が観客に何か考えること促すというもの)があると、その後に少し間があり、その後にほとんど必ず答えらしきものが提示されるという展開の仕方にポイントがあると思う。いわゆるアート系の映画というのは何か抽象的な映像なりなんなりのあと間があり、その抽象的なものが何であるかという「答え」が示されないまま次のシーンに飛んでしまうことが多い。これが難解さを時に生むわけだが、多くの場合はその間のあいだに観客がその「答え」を自分で思いつくと期待して作られている。そこで「わかる人にはわかる」というちょっとスノッブな感じがアート系映画には付きまとってしまうわけだが、(典型的な)ハリウッド映画は逆に間を与えず、投げかけがあったらその直後に答えが提示される。そして多くの場合はその答えが次の投げかけになっていて、投げかけと答えがドミノ倒しのようにどんどんと連なっていき観客は考える間を与えられないまま最後まで引っ張られていくことになる。
この映画の「投げかけ-間-答え」というわかりやすさは少々親切すぎるという感があり、私には不満だった。投げかけと間があって、あとは観客の想像力に任せるのが力のある映画のやるべきことなのではないかと私は思う。せっかくいい間を作っているのだから、その間を生かした映画作りをして欲しかったと残念でならない。
それはたとえば、聾唖であるサチの耳が聞こえないのをいいことにシンがサチの悪口をいうシーンがあるが、そこでサチを映したあと、シンの口が映り、またサチが映り、サチは微笑んで帰っていく。それだけでサチが唇を読めるということは大体想像がつくのに、そのあとサチ自身の心の声として自分は唇が読めるし、それをこれまで隠してきたということがとうとうと語られる。これはどうも私には饒舌すぎる蛇足のように感じられてしまう(そのあたりをそぎ落としていったら、もう30分くらい削れたんじゃないかと、無責任にも思ったりもする)。
などと文句も書いてみたが、この映画は一つの試みというか新しい方向性として非常に優れたものだと思う。実験的な映像手法とドラマの融合。実験的なものが笑いに結びつきやすい中で、それをシリアスな映画の仕掛けとして十全に生かす。
過剰なわかりやすさというのも、新しいからこそ理解してもらおうと説明過多になってしまった部分があるのではないかといいほうに考えたくなるような、そんな期待感のようなものを感じた。