マトリックス リローデッド
2003/7/3
The Matrix Reloaded
2003年,アメリカ,138分
- 監督
- アンディ・ウォシャウスキー
- ラリー・ウォシャウスキー
- 脚本
- アンディ・ウォシャウスキー
- ラリー・ウォシャウスキー
- 撮影
- ビル・ポープ
- 音楽
- ドン・デイヴィス
- 出演
- キアヌ・リーヴス
- ローレンス・フィッシュバーン
- キャリー・アン・モス
- ヒューゴ・ウィーヴィング
- ジェイダ・ピンケット=スミス
- モニカ・ベルッチ
前作『マトリックス』で死の淵からよみがえり、「預言者」であることを実証したネオがさらにパワーアップし、機械との戦いに挑む。現実世界ではザイオンの場所がついに突き止められ、それを滅ぼそうと大量の兵器が地面を掘り進んでいる。ネオは残されたわずかな時間の中で預言者に会い、どうすればザイオンを、そして人類を救うことができるのかを知らなければならなかった。
『マトリックス』3部作の第2作目となる作品。1作目から3作目の橋渡しだけに物語的には中途半端という感は否めないが、アクションの面では1作目からパワーアップしているようだ。ただ、CGの精密さは今ひとつで実写の映像との違いが明らかなところが興ざめ。いろいろな謎を潜ませて観客の興味をひきつけていくところはさすがという感じ。
まず、私はこの映画みたいな中途半端な映画が嫌い。『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』とか、『ロード・オブ・ザ・リング』の2作目とか、完結編ができることを予告しておいて、中途半端なところで終わるという話が嫌い。連続ドラマや連載小説だってあまり好きじゃない。
ということを断っておいて、もう一つこの映画で納得いかないのはどうもCGの質がよくないところ。『マトリックス』は圧倒的なアクションで見るものを引っつかんで複雑なストーリーで引っ張りまわすような力強さがあって、それで社会現象にまでなったのに、この2作目はつかみ所のアクションシーンでCGバレバレなのがどうも興ざめしてしまう。特に前半のネオが預言者に会いに行った後のスミスとのアクションシーン、キアヌ・リーヴスが飛んだり跳ねたりするところで、その姿がCGになったり実写になったりころころ変わり、そこに結構わかりやすい違いがある。それがどうも気になってアクションシーンで手に汗握ってみることが出来なかった。
まあしかし、面白くないわけではない。まず「マトリックス」という世界の立て方がそもそも面白いので、その謎を解くというところで映画に引っ張られていってしまう。「マトリックス」とはつまり機械によって作られた仮想世界であり、この映画によって示唆されているところによれば今現にわれわれが生きている世界も「マトリックス」であるらしい。あるいはそうである可能性がある。そのような疑問は古典的なもので、誰しも子供のころに考える「夢の中の自分が本当で、今の自分は自分が見ている夢の中の自分なんじゃないか」という疑問に似ている。そのように古典的だからこそその考え方は魅力的で、観客をひきつける。しかも、今われわれは日に日にリアリティを奪われていってもいる。
だから少なくとも「現実」というものを考える手立てとしてこの映画は利用できる。ザイオンという現実よりも「マトリックス」という仮想現実のほうがより現実らしいということ、映画を見ながら幾度も「マトリックス」を現実であるかのように考えてしまうこと、そのようなことを考えることがわれわれの「現実」に跳ね返ってくる。
だからこの映画に入り込むことは用意で、入り込むことができれば楽しむことだって容易だ。単純に見て「面白い」と感じることも出来るし、謎解きゲームとして楽しむことも出来るし、哲学や神学的な示唆に目を向けてその裏にある何かを捜し求めてもいい。そういう意味ではとても面白い。
しかし、それだけでは済ますことができないものがこの映画にはあると思う。
<ここからかなりネタばれしていくと思う>
まず、この映画を語ろうとするときに、この2作目の時点では疑問として残されることになった「ザイオンは現実なのか」という問題がある。最後にネオがセンティネルズを止めることができたのはなぜか? ということとベインはなぜネオを殺そうとしていたのかということから、そのような疑問が浮かんでくるわけですが、それが「レヴォルーションズ」の主要な謎となるだろうという予測は容易につくわけで、ここでそれがどうなのかをここで予想してみてもまったく意味はない。
ということを言っておいた上で、この2作目の時点で「マトリックス」というものをどう捉えたらいいかを考えたい。1作目の時点では今から見て近未来に人工知能が開発され、それが「マトリックス」を作り上げるという設定だった。人間はマトリックスを現実と考えさせられ、本当の現実では機械を生かすために生かされているに過ぎない。そしてそれに気づき、抵抗する人々がザイオンにいる。となる。しかし、この2作目では今われわれのいる世界もまた「マトリックス」なのかも知れないというほのめかしがある。アーキテクチュアによって「マトリックス」も救世主も6代目であると語られるとき、バックの画面にヒトラーやら息子ブッシュやらが映る。それは今が何回目かの「マトリックス」であることのほのめかしなのではないか?
そう考えたとき、この映画は何を語ろうとしているのか? われわれは「マトリックス」に住まわされているのだ、みんな気づけよ! というメッセージだという風に読めなくもない。しかし、このままではこの「マトリックス」からわれわれは解放するものはネオのようなひとりの英雄であるということになる。それは単純な救世主待望論であり、結局われわれのコントロールできないものによって現実がコントロールされているということになってしまうので、それが現実であったとしても「マトリックス」にいることとそう変わりはないのではないかという疑問が頭をもたげる。われわれ自身の手で「マトリックス」を打ち崩すことができるというのでなければ、真の希望にはなりえないのではないか?
などと考えつつ、それも結局『レボルーションズ』を見なければわからんというのは非常に腹立たしいという不満をまた感じる。
ところで、この映画の物語としての重要な欠陥を一つ上げると、そもそも「マトリックス」にあるソースを破壊することで、戦いが終わると考えるというのはおかしい。「マトリックス」とは仮想現実でしかないわけだから、そこにある何を破壊したって、それはプログラムによって生み出されたものを破壊するだけで本当の(物理的な)メインフレームを破壊することになるわけがない。
というあたりにも疑問あり。