裸足の1500マイル
2003/7/4
Rabbit-Proof Fence
2002年,オーストラリア,94分
- 監督
- フィリップ・ノイス
- 原作
- ドリス・ピルキングトン
- 脚本
- クリスティーン・オルセン
- 撮影
- クリストファー・ドイル
- 音楽
- ピーター・ガブリエル
- 出演
- エヴァーリン・サンピ
- ローラ・モナガン
- ティアナ・サンズベリー
- ケネス・ブラナー
- デヴィッド・ガルピリル
1931年、オーストラリアでは混血の子供たちをアボリジニの親から引き離し、白人社会に適応させようという政策が実施されており、共生的に施設に収容する権限がアボリジニ保護局に与えられていた。ジガロングに住む混血の少女モリーと妹のデイジー、従妹のグレイシーにも保護局の手が伸びていた。そして、配給所に出かけた日、彼女たちは保護局の役人によって強制的に連れ去られ、1500マイル離れた収容所に入れられてしまった…
モリーの娘の一人ドリス・ピルキングトンが母親の体験を綴った原作をもとにしたドラマ。フィリップ・ノリスは『パトリオット・ゲーム』や『ボーン・コレクター』などを撮っているオーストラリア出身の監督。
帝国主義がはびこる時代の人種差別的な考え方、野蛮な先住民を教化することは彼らのためになると言うような物言いがはびこったということは、今でも問題視する必要はあるし、それを繰り返し言うことに意味がないとはいわない。この映画によってそのことに気づき、何らかの物語を自分のなかに溜め込むことができれば、それでその人にはとても意味があることだろう。
しかし、この映画のエンドロールを見ながら、フィリップ・ノリスやクリストファー・ドイル、ピーター・ガブリエルという名前を見て、そこに胡散臭さを感じずにはいられない。アボリジニが主役であり、アボリジニにとって重要な歴史を語ろうとする映画なのに、それを作っているは白人であるというのを見るにつけ、ここにはまだこの映画で描かれたような家父長的な世界観が残存しているのだろうと考えてしまう。アボリジニたち自身の創造的な活動としてこのような映画が出てくれば、それはなにかとてもいいようなもののような気がするけれど、ハリウッドの息のかかったという言い方はよくないけれど、そもそも世界的な市場に売り込むルートを持った人たちによってこの映画が作られ、それが世界に売れていったというのはどうも気に食わない。
そのようなこの映画の背後に透けて見える構造が、映画の中にも臭ってくる。この映画の主人公は混血の少女たちであるのに、「混血」ということがあまり語られない。彼女たちが混血化した理由はもちろんほとんどが白人によるレイプだったということは語られない(屋敷で働く収容所での混血の娘のエピソードでそのことがほのめかされるけれど、それはほのめかしに過ぎない)。この映画の作り手はいったい何を恐れているのか? そのような描写をすることで白人社会から反発が来ることを恐れているのか? PGやR師弟が突いてしまうことを恐れているのか? あるいは素朴にそのようなことを描く必要はないと考えたのか? そしていったい何を伝えようとしているのか?
この映画はアボリジニたちの生きる力の強さ、その土地にあった生き方を会得している賢さ、というようなものを描いているのではないのか。だとしたら、彼女たちがいかに生き延びたかを持った描いたほうが効果的だったのではないか?白人たちがオーストラリアという土地では無力であり、それとは逆にアボリジニは少女であってもその土地で生きるすべを知っているということを描いたほうがよかったのではないかと考えてしまう。
言いたいことはわかるし、それを批判する理由もないけれど、それを言うために必要な肝心なことがかけている気がする。厳しく言ってしまえば、ただ人種差別を批判し、過去の出来事を掘り返すだけの映画を差別した人間の子孫として撮るということをいまさらやってどうするのだと言いたい。なぜそんなことが起こってしまったのかとか、それが今引き起こしている問題をどうするのかとか、そういうことを描かないで何になるんだと言いたい。
失われつつあるひとつひとつの記録を残していくことにはそれなりの意味がある。この映画はそのような意味はあるが、その個別的なことを越えたところで何を語っているのかと問われたら、「あたりまえのこと」を言っているだけだと言うしかない。