史上最大の作戦
2003/7/25
The Longest Day
1962年,アメリカ,179分
- 監督
- ケン・アナキン
- ベルンハルト・ヴィッキ
- アンドリュー・マートン
- エルモ・ウィリアムズ
- 原作
- コーネリアス・ライアン
- 脚本
- コーネリアス・ライアン
- ロメイン・ゲイリー
- ジェームズ・ジョーンズ
- ロマン・ギャリー
- 撮影
- アンリ・ペルサン
- ジャン・ブールゴワン
- ワルター・ウォティッツ
- 音楽
- モーリス・ジャール
- 出演
- ジョン・ウェイン
- ヘンリー・フォンダ
- ジャン=ルイ・バロー
- ロバート・ミッチャム
- アルレッティ
- ショーン・コネリー
1946年6月、第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の転換期となるノルマンディー上陸作戦前夜、折からの嵐で作戦決行が延期され、船で待機している兵士たちは船酔いで疲弊し、他の兵士たちも早く出撃したがっていた。対するドイツのほうは嵐が治まるまでは攻めてこないと高をくくっていたが、連合軍側は嵐をぬっての進撃を決意していた。
アメリカ、イギリス、フランス、西ドイツの映画人とスターたちが集まっておよそ20年前の戦場を再現した本格戦争アクション。作戦が始まってからはほとんどが戦争シーンで、それが3時間も続くという圧倒的な作品。
戦争映画というのはどうしてもプロパガンダと結びつきやすい。それは戦争中の映画ももちろんだが、戦時ではなくても戦争を描くことはその視点を観客に押し付けることであり、観客を見方に引き込むプロパガンダになりうる。その一番わかりやすい例は『プライベート・ライアン』であり、あの映画はただただアメリカ軍へと観客を動員するだけだ。そのからくりはここでは書かないが、あの映画は第二次世界大戦を描きながら、リアルタイムにアメリカ軍への動員とアメリカへの愛国心を掻き立てるものとして作られている。
この『史上最大の作戦』は『プライベート・ライアン』のように愛国心を掻き立てるような仕掛けにはなっていない。それは登場する人たちがそれぞれ自分の国の言葉でしゃべり、視点も一方的ではなくて連合軍側とドイツ側両方の視点があるからということになるが、だからといってこの映画にプロパガンダの要素がないということにはならない。
当時の時代背景を考えれば、それは冷戦構造が確立された時代、ドイツは分割され、ソヴィエトはアメリカと西ヨーロッパにとって脅威となった。そんなときに第二次世界大戦を描いた映画が西側諸国の協力の下撮られたというのは非常に示唆的だ。ドイツは第二次大戦では敗戦国となったわけだけれど、そのナチスドイツを否定する形で生まれた西ドイツは東西対立の中で確実に西側の重要国となりつつあった。ここで暗示される冷戦はハリウッド映画がすでに世界に覇権を確立し、ヨーロッパのみならず、ラテン・アメリカやアジアでも大きな力を持っていたことも考えると、メッセージとして重要なものかもしれない。とくにこの映画が作られた1962年とはキューバ危機の年であり、ラテン・アメリカの左傾化を防ぐことがアメリカにとって急務だったことは考えておく必要があるだろう。
この映画が描く戦争はある意味ではリアルであり、ある意味ではリアルさにかける。また『プライベート・ライアン』を比較の俎上に載せるが、『プライベート・ライアン』に代表される現代の戦争映画は爆破や銃撃といったもののCG化や特殊メイクなどによって個々の戦闘をよりリアルに描くことができるようになっている。それは腕がもげたり、腹に風穴が開いたり、そういったことが普通に描けてしまうということである。それに対して『史上最大の作戦』の当時にはそんな技術はなく、人々はほとんど血を流さない。しかし、逆にこの映画には妙なリアルさがある。それを一番感じたのはイギリス軍が上陸するときにひとりの兵士がバグパイプを吹いていることだ。銃は持たずただバグパイプだけを持ち、他の兵士たちが上陸していくのを鼓舞するひとりの兵士。この兵士に代表される具体的な戦闘と無関係な部分でのリアリティというのがこの映画にはある。しかし、それは他方で戦争の残虐さを隠蔽することにもつながり、それは具体的な残虐性を失った「冷たい戦争」を再び連想させる。ドイツ軍に勝利する連合国というイメージ、そして隠蔽された残虐性、それによってこの映画は人々を冷戦体制の西側へと引き込もうとしているのだろうか?
結論を言ってしまえば『プライベート・ライアン』よりはましだが、やっていることは大して変わらないということだ。残虐性と恐怖心によって一国の愛国的な心理をあおるるのか、それとも日常性とシンパシーによって一つの体制への賛同を求めるのか、というそれだけの違いしかない。
そしてまた、そのようなプロパガンダ的な要素を無視してみるならば、この二つの映画に対する好き嫌いは、どんな戦争アクションが好きかという好みの問題に還元されてしまうのではないか。ある意味では『プライベート・ライアン』はこの『史上最大の作戦』の35年後の焼き直しであり、プロパガンダの繰り返しでしかないのだ。