ブレードランナー
2003/7/27
Blade Runner
1982年,アメリカ,117分
- 監督
- リドリー・スコット
- 原作
- フィリップ・K・ディック
- 脚本
- ハンプトン・ファンチャー
- デヴィッド・ウェッブ・ピープルズ
- 撮影
- ジョーダン・クローネンウェス
- 音楽
- ヴァンゲリス
- 出演
- ハリソン・フォード
- ルトガー・ハウアー
- ショーン・ヤング
- エドワード・ジェームズ・オルモス
- ダリル・ハンナ
主に地球外での奴隷労働のために感情を持たない以外人間とまったく同じ機能を持つ“レプリカント”は人間に対して反乱を起こし、彼らは地球から排除された。2019年、ロサンゼルスに植民惑星から脱走したレプリカントが紛れ込み、レプリカントの捕獲人である“ブレードランナー”が殺された。その結果、彼らを捕獲は元腕利きのブレードランナーであるデッカードに依頼されることになった。
言うまでもなく80年代SFの金字塔、『エイリアン』と並んでリドリー・スコットが残したSFの名作の一つでもある。今見ても、全編に満ちた緊張感とリアルな描写は十分に人をひきつけるに足る。そして、いろいろと考える材料にもなる作品。
“フィルム・ノワール”が何であるかという疑問は置いておくとしても、この映画がフィルム・ノワールと呼ばれる映画ジャンルの映画の一つであることは間違いない。しかし、それが何かを意味するというわけではない。この映画を支配するのは陰鬱な映像と、ひとりの確固たる主人公。映画は主人公の語りによって始まり、その語りは次々と続くシーンへとかぶさっていく(ボイス・オーバー)。ここで感じられる雰囲気がまさにフィルム・ノワールということなんだけれど、すでにフィルム・ノワールという言葉が漠然とでも一つのイメージを浮き彫りにすることができなくなってしまっているため、この映画がフィルム・ノワールであるといったところで、この映画を批評する役には立たない。そのように言うことに意味があるとしたらそれは、この映画の面白さがフィルム・ノワール的な部分にあるのだと気づく人がいるかもしれない(他のフィルム・ノワールの映画を見ることによってそのことを確認できるかもしれない)ということぐらいである。
なので、この映画がフィルム・ノワールであるという論法は置いておいて、他の道からこの映画を読み解いていきたい。この映画からはさまざまなテーマを掘り起こすことができるように見えるが、その中でも一番大きなテーマと言えそうなのは、人間と時間の関係である。明確に限られた時間しか持たないレプリカントと限られているが不確定な時間を持つ人間、その違いを描くことによって人間と時間の関係を描き出すこと。
明確に限られた時間しかもたないレプリカントを見ることで、人間は自分の時間の限界に気づかされてしまう(繰り返しあらわれる巨大広告が“強力わかもと”のものであるということを、若返りという時間の引き延ばしを暗示するものと考えるのは考えすぎだろうか?)。
それは逆にレプリカントの寿命を4年に限った理由でもあるのかもしれない。意図的に限界を設けない限りレプリカントは生き続け、人間が決して手に入れることの出来ない“不死”を手に入れてしまう。そうはさせないために寿命を4年に限り、感情を持たせないようにし、奴隷として簡単に扱えるようにした。
もちろんそれは「感情」という人間と機械とを区別する最後の砦を死守するというのも理由ではあるのだろうが、果たして人間と機械を区別することなど可能なのだろうか? この映画はそんなことは決して可能ではないということを言っている。何度もほのめかされる人間に対するレプリカントのテスト、それは最後の砦が実はもう崩れ去ってしまっているということを意味している。人間はさまざまな機械によって身体感覚を喪失し、どんどん機械へと近づいている。レーチェルよりも人間らしい感情を持っていない人間など、いまの世の中でも無数にいるに違いない。この映画は人間と機械とを明確に区別しながら、実はそんな区別はすでに存在していないということをほのめかしてもいるのだ。
今書いたような「人間と時間」とか「人間と機械」という問題以外でも、さまざまな問題がレプリカントの寿命が4年であるという事実やその理由を考えることで浮かび上がってくる。それはこの映画の純粋な映画としての面白さとは別の面白さの一つである。この映画は公開された当時は純粋に映画としてすごかったのだろうけれど、いまではそれとは別の見方で見ることで、さまざまな面白さが浮かび上がってくる映画だと考えるのが正道だと思う。