クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲
2003/7/29
2001年,日本,89分
- 監督
- 原恵一
- 原作
- 臼井儀人
- 脚本
- 原恵一
- 作画
- 原勝徳
- 堤のりゆき
- 間々田益男
- 音楽
- 荒川敏行
- 浜田史郎
- 出演
- 矢島晶子
- ならはしみき
- 藤原啓治
- 真柴摩利
- 小林愛
- 津嘉山正種
なぜか1970年、大阪万博の会場にいる野原一家、そしてなぜかそこに怪獣が現れ、野原家は地球防衛軍のようなものになり、ヒロシは“ヒロシSUN”という謎のヒーローに変身し、怪獣を退治する。
実はこれは春日部に出来た“20世紀博”なるイベントの「なつかしのTV番組のヒーローになれる」という企画だった。子供を託児所に集め、遊びに夢中になる大人たち。しんのすけをはじめとする子供たちも、おかしいと思い始めていた。そんなある日の夜、20世紀博からの大切なお知らせなるものを見た大人たちが豹変する…
子供向けとは思えないつくりで話題を呼んできた『クレヨンしんちゃん』の劇場用アニメの中でも最高傑作といわれる記念碑的作品。
この映画の面白さとは何なのか? 最初見ると、「オトナ向きの物語」「コドモにはわからない」という印象を持つ。しかし、本当にそうなのか? この物語はオトナが自分のコドモの部分に目覚め、支配され、大人を完全に失ってしまうという話。しかし、オトナ-コドモという対立概念を仮定してみたとき、完全にオトナだったり完全にコドモだったりということはありえないということはすぐにわかる。どんなに小さい子供でも(たとえばひまわりでも)その中にオトナの要素を持っているし、どんな大人でも(これはいい例が思い浮かばないが)コドモの要素を持っている。子供は大人が思っているほどコドモではないと私は思います。
つまり誰しもがオトナであると同時に子供であり、コドモであると同時に大人であるのだ。この映画は子供のオトナ的な部分、大人のコドモ的な部分に話しかけてくる。そのような映画だと思う。
それはそれとして、この映画の基本的なコンセプトはノスタルジーである。基本的には昭和40年代と思われるが本当にはいつなのか決して決まることのない懐かしさの対象、それはノスタルジーという空想上の過去、決して存在しなかった過去、つまり虚構への憧れでしかない。その証拠に彼らが作り出す過去には過去にはありえなかったはずのテクノロジーがあったりする(そのあたりをしっかりと入れ込んでしまうところがこの映画のすごいところだと思うのだが)。それはつまり、“イエスタデー・ワンス・モア”なる団体のリーダーのケンが「輝いていた21世紀」と呼んだ未来(それは決して訪れることはない)という虚構のコインの裏でしかない。
そのとき、大人にとっては未来はすでに輝けるものではなくなり、過去だけが輝いてみる。それがノスタルジーというものの正体だと思うのだが、この映画はそのことを見事に描いて、無意識に「昔」を美化してしまうオトナに警句を発しているんだとおもう。
しかし、その映画がさらにすごいのは、そのような警句を発しながら、最後までノスタルジーに浸っていることも可能であるということだ。ラストシーンは昔さながらの田園風景を2000GTが走っていくという、ある人にはノスタルジーの塊のようなシーンなのだ。
そして同時に、それ以外の結末も用意されている。それは「家族愛の勝利」や「ヒロイズム」というもので、観客はそれぞれに映画を見て、それぞれに納得のいく結末を得ることができる。大人は涙し、子供は喜ぶ。あるいはそのような構造を理解している自分が映画より勝っていると考えて「たいしたことない」とほくそえむ。
素直に感動する人も、バカにする人も、「子供向けなのにこれは」という人も、すべてこの映画の術中にはまっているというか、この映画の懐の深さに受け止められてしまっている。批判は出来ても、自分が楽しんでしまったことを否定は出来ない。
それは何かハリウッドのスペクタクル映画と共通するものがあって、ハリウッド映画のそんな要素はどうも気に入らないんだけれど、基本的に下に見られているアニメ映画がそのような要素を持ってしまったということに私は高評価を下したい。これだけハリウッド映画が世界を圧倒している中、それに対抗できるものはやはり日本のアニメ(というのは日本で作られたという意味ではなく、いわゆるジャパニメーションといわれる漠然としてジャンルのアニメ)だけだと思ってみたりもする。