フレンチ・コネクション
2003/7/31
The French Connection
1971年,アメリカ,105分
- 監督
- ウィリアム・フリードキン
- 原作
- ロビン・ムーア
- 脚本
- アーネスト・タイディマン
- 撮影
- オーウェン・ロイズマン
- 音楽
- ドン・エリス
- 出演
- ジーン・ハックマン
- ロイ・シャイダー
- フェルナンド・レイ
- トニー・ロー・ビアンコ
フランス、マルセイユで一人の男が殺される。ニューヨークでは、麻薬課の通称ポパイことドイル刑事が相棒のラソーとクラブで見かけた新顔の男を尾行する。その男サル・ボカを怪しいとにらんだドイルとラソーは張込みを続け、大きい取引のにおいを感じる。その頃フランスではテレビ・スターのアンリが大物らしい男に怪しげな仕事を頼まれ、引き受けた…
いわずと知れた70年代を代表するアクション映画。とことんハードボイルドな展開が見るものをしびれさせた。ジーン・ハックマンはこの作品でアカデミー主演男優賞などを受賞し、一躍名優に。
これは30年前の映画だが、今の映画と比較するとあまりに違う。しかも、この映画がアカデミー賞を撮ったということは、ある意味ではメインストリームの映画だったので、いまメインストリームにある映画と比較することも可能なはずなのだ。
では、どこが違うのか。まずわかりやすいのは、この映画が徹底的にハードボイルドであるということだ。笑いにもって行こうとしたり、主人公のプライベートの部分でサブプロットを組み立てようとしたり、内面的な葛藤を物語に組み込んだりしようとはしない。これはこの作品だけの特徴かとも思えるが、同じ年に作られた『ダーティー・ハリー』もかなりハードボイルドな作品であり、このふたつの作品が70年代に空前の刑事映画ブームを呼んだことを考えると、このハードボイルドさこそが時代性なのだといえるのではないだろうか。
いま(というのはおよそ90年代以降)の刑事映画というのは、内面の描写に重きを置いているような気がする。直接的に内面を描かないにしても、さまざまな表現によって心理的な動きを推察できるように作られている。そのためには家族とか恋人とか内面的なものにつながる親密な関係性を持つ人々が脇役として登場してくる。あるいは家族がいないというような事実が。そのようにして主人公の精神的なキャラクターを固め、それをたとえば音楽などを使って観客にわかりやすく提示する。それはつまり観客をその主人公の位置にもって行き、自己投影させることを可能にするということでもある。
これに対して、ハードボイルドな映画は音楽も明確なメッセージ性を持たないものを使い、主人公の精神的な部分は推察できない。観客はその主人公をかっこいいとは考えても、そこに没入することは出来ない。出来るとすればある種の憧れの目で見ること。そのようにして身近なヒーローとして主人公が登場するのが70年代刑事映画の特色といえるだろう。
話は少し離れますが、「身近な」ということから言うと、90年代末から、ヒーローの形はさらに変化してきて、ありえない、いるはずがないヒーローがヒーローとして認知されるようになってきた気がする。一つにはアメリカン・コミックの映画化の連発や、もちろん『マトリックス』、『ミッション・インポッシブル』、『チャーリーズ・エンジェル』などなど、ヒーローがヒーローとして本当に手の届かないところにいるようになった。そして、それでも内面的な部分では見ている自分とそう違いはないというところがポイントであるといえる。
この映画の話に戻ると、主人公に没入できないということともつながるが、敵に対しても主体性を与えているというところもポイントになっている気がする。ヒーローに対してアンチヒーローなのではなく、主体的な個人と個人(あるいは組織と組織)がぶつかることから生まれる戦い、そこには価値観の対立があるのではなく、単純に利害の対立があるだけ。その時、一応主人公の側に正義があるけれど、その正義も決して絶対的なものではないような世界観、そのような世界観というのがこのハードボイルドさと切り離せない要素になっている。
そのようなものも含めてこの映画が代表する70年代の時代性とは、いい意味でも悪い意味でも物質的なものなのかもしれない。もちろん物質的なものの裏には内面的なものがあり、それが表面に出てきていないからといって描かれていないということではないのだけれど、見る側(作る側)の価値観として、内面的なものを描くよりも物質的なものを描くほうがかっこいいという価値観があるんじゃないかという気がする。
いまの時代性には合わないけれど、いまの映画の過剰なヒロイズムやありえなさや内面偏重に辟易した人はこの辺りの映画を見るとスカッとするのではないかと思いました。