フレンチ・コネクション2
2003/8/1
The French Connection 2
1975年,アメリカ,119分
- 監督
- ジョン・フランケンハイマー
- 原作
- ロバート・ディロン
- ローリー・ディロン
- 脚本
- アレクサンダー・ジェイコブス
- ロバート・ディロン
- ローリー・ディロン
- 撮影
- クロード・ルノワール
- 音楽
- ドン・エリス
- 出演
- ジーン・ハックマン
- フェルナンド・レイ
- ベルナール・フレッソン
- ジャン=ピエール・カスタルディ
- フィリップ・レオタール
フランス、マルセイユにニューヨークからやってきた“ポパイ”ことドイル刑事、ニューヨークで取り逃がしたシャルニエを捕まえるためにやってきた彼だったが現地の警察はとても彼に協力的とは言えず、彼は警察がつけた尾行を引き連れてただただ町をぶらつくばかりの日々だった。しかし、シャルニエはそこにいて、謎の男と取引の交渉をしていたのだった…
アカデミー賞まで受賞した作品の続編であるにもかかわらず、前作とはまったく違うおもしろさを持つという稀有な作品。監督がフランケンハイマーになり、原作・脚本・撮影までスタッフががらりと変わり、まったく違う趣向の映画という感じになったのが功を奏したか。
前作とはまったく違う映画と考えたほうがいいかもしれない。舞台はフランスに移り、ドイルは言葉のわからない中でただただ孤独に街を歩く。バーテンダーと言葉にならないコミュニケーションを交わして酔っ払っても、気に入ったおネエちゃんに声をかけてもつのるのはむなしさばかり。
前作では、フランス語の会話に英語の字幕が入り、フランス人たちの会話も意味が取れるようになっていたが、今回はフランス語はフランス語として垂れ流され、フランス語がわかる人ではないと意味がわからない。それは観客をフランス語のわからないドイルと同じ立場におくということである。この時点ですでに、前作が貫いたハードボイルドな姿勢というのはまったく否定されてしまっている。これはいい/悪いの問題ではなく、単純にまったく性質の違う映画になるということを意味するのだ。
前作がハードボイルドに徹し、冷たいほどに主人公に観客が没入するのを拒否した映画であったのに対して、この作品では観客はドイルの立場にするりと誘い込まれる。第一は言葉の問題だが、物語の展開の仕方もシャルニエのなぞめいた行動も描く一方でほとんどをドイルの(ほとんど意味のない)行動にさく。そして決定的なことに、ラスト近くにはドイルの主観ショットまで登場する。
昨日の文脈を踏まえて言うならば、より現代的になったということであり、今(というよりは90年代末)に見たならば、「1」よりもこの「2」のほうが多くの観客の共感を得ただろう。
とはいえ、それほどストレートに内面を描いているわけではない。この映画のクライマックスはなんといっても、ドイルがのたうち苦しむアノ場面(ネタばれ防止のために書きませんが、見た人ならキットわかる)だが、そのシーンを見たときに思い出したのは『インサイダー』のラッセル・クロウ。ジーン・ハックマンに(作品にではなく)アカデミー賞をあげるなら「1」よりもこの「2」だったんじゃないかという気がした。
このシーンに象徴されるのは、観客がドイルの痛みや苦しみを共有するということだ。フランスまでやってきて孤独で、いらだたしく、しかし正義を忘れない、そんな主人公に没入することで始めてこの映画は転がっていく。よく考えると、このドイルはフランスまでやってきていったい何をしたいのかよくわからないだけに、その没入が出来ないと(つまり前作と同じような第3者の視点で眺めると)退屈な映画になってしまいかねない。
そして、まったく違う映画であるけれども前作に引きずられてしまっている部分もある。その差異たるものは“ポパイ”ドイル刑事のキャラクターで、前作ではハードボイルドさにはまって無茶な行動も一つのキャラクターになりえたのだけれど、今回は無茶な行動が目に余るというか、ただ暴れているという印象を残してしまいかねない。観客も自己を投影してしまっているがゆえに、無茶な行動を取られると、スッと心が離れてしまう。一番感じたのはシャルニエの隠れ家を見つけたときのアノ行動(ネタばれ防止)で、「何もそこまでしなくても…」と思ってしまった。
と、少々難点もありますが、2本のシリーズでまったく違うスタイルを持ち、しかも両方面白いというのはなかなかないので、見てない人、あるいは見たけど忘れてしまった、あるいはどちらかしか見ていないという人は、ぜひ2本続けてみてみてくださいませ。どちらのほうが面白いかというのはそれを見ている時代の、時代性によるというのもとても面白い。