弁天小僧
2003/8/29
1958年,日本,86分
- 監督
- 伊藤大輔
- 脚本
- 八尋不二
- 撮影
- 宮川一夫
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 市川雷蔵
- 青山京子
- 阿井美千子
- 島田竜三
- 舟木洋一
- 勝新太郎
病身の父を抱えるお半は屋敷奉公に出たが、そのお半が隠居に噛み付いて座敷牢に閉じ込められているという。そんな街のうわさを聞きつけた悪旗本3人は坊主に化けて娘と金を騙し取ろうと考えた。しかし、彼らより一足先に、宮の小姓がやってきて、金と娘を手に入れていた。じつはその小姓も強請集りが専門の弁天小僧というチンピラだった…
江戸の町を舞台に旗本と町人がだましだまされのすったもんだを起こし、恋の話も絡んできて、さらには遠山左衛門尉まで登場してくる市川雷蔵主演の痛快時代劇。
市川雷蔵が時代劇に出ることが多いのは、彼が歌舞伎役者の息子(養子)であるからばかりではない。今となっては時代劇なんて、テレビの帯ドラマで見るだけれだけれど、この時代まだ時代劇はドラマの花形だった。それはなぜかと考えてみると、戦後日本がどんどん世知辛くなってくる中、現代を舞台にしたドラマは人情を書いて魅力に欠けたのではないか。
もちろん、現代を舞台にしたドラマもたくさんあり、人気もあっただろうけれど、やはり時代劇という古きよき日本という設定がドラマを魅力的にするという感は否めない。この映画で言えば、菊(雷蔵)がお半(青山京子)を逃がそうとするときのそのふたりの距離感、その恋心の描き方は時代劇でないとできない描写になる。
あるいは、画面の魅力、江戸時代の町並みと着物の色合い、その美しさはコンクリートジャングルの東京とスーツを着た男たちに出すことはできない。この映画でもカメラを持つ宮川一夫は現代を舞台にした映画も数は少ないが撮っているけれど、なんといっても彼の映像の美しさが発揮されるのは時代劇なのである。この映画で言えば土の道や木の床に落ちた朱色の櫛の美しさ、それはどうしても時代劇にしか表れえない美しさなのだ。
市川雷蔵の話ではなくなってしまいましたが、とりあえず時代劇というのは現代を舞台にしたドラマとは根本的に違うものだということ。時代劇という設定があってこそ作ることができるドラマや映像やシーンがあって、それは現代を舞台としたものとは違う面白さがあって、それは同時に日本映画にしかない面白さでもある。
それは端的に言ってしまえば日本人にとっての「ベタ」な話やネタ、遠山左衛門尉みたいな名前を聞いただけでどんな人かわかってしまうような登場人物が出てきたり、町娘に手をかけようとする悪代官が出てきたり、ギャグも笑えるんだか笑えないんだかわらかないようなネタが出てきたりする。これだけ聞いているとちっとも面白そうには見えないのだけれど、時代劇という舞台装置にはその「ベタ」なものを面白くしてしまうような力があるような気がする。もちろん、そのベタさがつまらなさにつながってしまうような映画もあるけれど、この映画のようにそのベタなネタやシーンが洗練され、面白さを生み出しているものはなんともいいもんだ。
ということで、なんだか時代劇を見よう!という話になってしまいましたが、つまり、市川雷蔵と宮川一夫の時代劇はとりあえず面白いぞ、ということで。