フルメタル・ジャケット
2003/9/3
Full Metal Jacket
1987年,アメリカ,116分
- 監督
- スタンリー・キューブリック
- 原作
- グスタフ・ハスフォード
- 脚本
- スタンリー・キューブリック
- マイケル・ハー
- グスタフ・ハスフォード
- 撮影
- ダグラス・ミルサム
- 音楽
- アビゲイル・ミード
- 出演
- マシュー・モディーン
- アダム・ボールドウィン
- ヴィンセント・ドノフリオ
- R・リー・アーメイ
ベトナム戦争のさなか、海兵隊の訓練基地の訓練学校に入学してきた新兵たち、初日から教官のハートマンの厳しいしごきを受ける。なかでも少し太めのパイルは何をするのもどんくさく、徹底的なしごきを受ける。新兵らしからぬ強い意志を持つジョーカーは途中で班長に任ぜられ、パイルの世話を懸命に見る。パイルの失敗は反全体にも迷惑を及ぼすが、ようやく卒業の日が近づいてきた…
キューブリックらしい皮肉が利いたベトナム戦争映画の傑作、厭戦/反戦というメッセージを発するよりも、本当の戦争の現実を描くことを選んだキューブリックの戦争映画は静かな中に鋭い主張を持っている。
いきなり、バリカンで頭を刈るカット、そして次々と坊主になっていく若者たち。最初のセリフもすさまじい、教官は新兵たちを「ウジ虫」と呼ぶ。その訓練は若者たちを殺戮者へと変貌させる訓練であるはずで、そのとおり訓練は激しく、厳しい。しかし、ランニングするときの歌はどこかコミカルで、映像もシュールで笑いすら誘う。その中でひとり精神的に追い込まれていくパイル、その特異性は特異性として訓練で利用され、映画でも利用される。しかし、それが生み出す効果がうまくいけばいくほど、彼の精神は苛まれていく。そのあたりの描写の仕方は見事としかいいようがない。
訓練が終わり、新兵たちが兵士となるところで、映画はばっさりと切れ、次のシーンではおそらく数年が経過している。そのばっさりと切られた前半と後半はまるで違う映画のようだ。しかし、前半の訓練のドラマをばっさりと切ってしまうところもまた映画の組み立て方として見事なところである。最後に起こる劇的な出来事を後半にまで引きずることなく、その余韻を観客に残す。そして、その余韻から漂ってくる「死」の臭いが映画の最後までつきまとうというのも展開として見事なのだ。
この映画は表面的にはシニカルで、戦争を、あるいは戦争を遂行するアメリカ政府を皮肉っているように見える。しかしそれは主張としてシニカルなものがあるというよりは、戦争という現実自体のシニカルさなのではないだろうか。生死をかけながら大義名分が見えてこない戦争、叩き込まなければ生まれてこない愛国心、常に「死」と隣り合わせの現実、そんな現実と対峙した人間は、そのような現実と真摯に向き合うことができるのだろうか? そのような(平和な)日常からかけ離れた現実に向かい合うためにはどこかでその現実を冷笑的に捉えなければいられないのではないか? そのように捉えなければ自分が現実から転げ落ちていってしまう。
戦争とは何か? われわれには戦争とは現実から非常にかけ離れたものであるように思える。しかし、この映画は非常にリアルだ。そこにある戦争が現実のものであることがひしひしと伝わってくる。それはいったい何故なのかと考えると、それがわれわれの日常と似ているからだ。兵士たちは戦場にあっても、実際の戦闘に出会うまでは完全に日常的な生活をしている。厳しい訓練であっても、それは現実の延長である。現実から非現実へと徐々に移行していく過程としての訓練と、報道部門をじっくりと描くことで、この映画はその後に描かれる激しい戦闘をわれわれの日常に近づける。そして、そしてそこに描かれる「死」をも。
そしてラストの「アノ歌」もだ。キューブリックは戦争をわれわれの現実にひきつけて描き、同時にそれをシニカルに捉えなければいられないものであることも伝えた。戦争とは何か? それを言葉で表すことは出来ないが、この映画はそれが何であるのかの一端を実感として感じさせてくれた。