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雪国

2003/9/14
1957年,日本,134分

監督
豊田四郎
原作
川端康成
脚本
八住利雄
撮影
安本淳
音楽
團伊玖磨
出演
池部良
岸恵子
八千草薫
浪速千栄子
森繁久彌
加東大介
千石規子
市原悦子
preview
 雪深い温泉場に向う汽車の中、絵描きの島村は美しい娘と病身の男を目にする。旅館に腰を落ち着けた島村は駒子という芸者の娘に会う。島村と駒子はおよそ1年前、出会い恋に落ちていたのだった。しかし島村は東京に妻子がある身、駒子は養母であるお師匠さんと病身のその息子、義理の妹の葉子を養わなければならない身の上だった。報われない恋と知りながら二人の恋心はとどめることも出来ず、2人は逢瀬を重ねていくのだが…
 日本文学史上に残る川端康成の名作「雪国」の初の映画化。本当に雪深い温泉場でロケ撮影を敢行した映像は圧巻。そして、岸恵子がなんといってもいい。
review

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」このあまりにも有名な書き出しそのままの映像でこの映画は始まる。それはこれがまさに雪国という小説の映画化であり、その小説をもとにした映画ではないということを宣言しているように見える。それはつまり、この映画にとって「雪国」という小説は単なる原作ではなく、映画そのものなのである。八住利雄という卓越したシナリオライターは原作の小説をそのまま映画にするべく脚本に起こし、豊田四郎という監督はそれをそのまま映像化する。この映画がまだ始まっていない冒頭の1シーンが語りだすのは、この映画が川端康成の『雪国』に他ならないということだ。
  そのような意味では、駒子に岸恵子がキャスティングされるというのは少し驚きだった。岸恵子というとなんだかスッとしたどこか西洋的なイメージがある女優だが、その岸恵子が芸者であり、しかもスッとしているというよりは女の子っぽく「いじらしい」とでも言ったほうがピタリと来る駒子を演じるわけだから。そしてその違和感は確かにこの映画に存在する。最初は、岸恵子の日本髪もその話し方もなんだがミスマッチのような気がするのだ。しかし、映画が進むに連れてその違和感はなくなり、岸恵子は駒子になって行く。コドモっぽい立ち居振る舞い、媚びるようなまなざし、強がる態度の裏に見せる弱さ、岸恵子はそんな駒子を見事に演じきってしまうのだ。芸者のあでやかな衣装に身を包み、静々と廊下を歩くその足捌きをぐっとアップで見せるその動きの美しさに息を呑み、しなだれかかるその体の線に肉感を感じるのだ。
  この映画は完全にその駒子の存在によって成り立っている。駒子という女の謎に。駒子が島村を好きなことは間違いないが、昼間はおとなしく女の子らしく島村が好きだという気持ちがあふれんばかりに出ているのに、夜になると決まって酔っ払って悪態をつき、しかし島村にしなだれかかる。設定の上でも師匠の息子で婚約者と周りからは言われている行男のために芸者になっておきながら、帰ってきた行男にはつれなくする。陽子とも反目しているようでいながら、火事にあったと聞くと必死に駆けつけ鬼の形相で陽子を探す。その行動の様々な矛盾が駒子という人物に様々な謎を持たせる。
  しかし、そのような矛盾が意味しているのはもしかしたらたったのことなのかもしれない。それは人間という存在の矛盾、人間の感情と思考、言動と行動の矛盾なのではないか。駒子という人物の心は様々な感情に常に引き裂かれ、その引き裂かれたバラバラの心同士が抱える矛盾に対処しきれなくなってしまった人物なのではないか。島村を想う心、師匠に対する気持ち、その息子の行男に対する気持ち、陽子に対する気持ち、そこには陽子の行男に対する気持ちというものも含まれ、彼女の心は散々に乱れる。
  人間の心というのはそのような矛盾を常に抱えているものだ。自分の感情に素直になどという一般論で割り切れるものなど世の中にはほとんどない。何が重要かなどということに順位などつけられない。にもかかわらず、常に様々なことを天秤にかけながら選択していかなければならない。そのような人間の生きる苦悩を駒子という人物はそのまましょってしまっているのだ。だから彼女は時にヒステリーかと思えるほどに島村にあたり、心中の話などを持ち出し、正体がなくなるまで酔っ払う。
  駒子以外の登場人物はそんな駒子とは反対に単純な人物であるように見える。何か考え深げであるような島村も東京とこの雪国との間で揺らいでいるように見えるが、彼の選択は単純な二者択一の問題でしかない。そして彼には駒子を選ぶという選択肢はないように見える。駒子がいうように島村は「一年に一度来る人」でしかないのだ。この2人の関係を見ながら、吉田喜重監督の『秋津温泉』を思い出す。『秋津温泉』もたまにやってくる男を待つ女が主人公であり、その女を演じる岡田茉莉子の姿がこの映画で駒子を演じる岸恵子にだぶるのだ。『秋津温泉』の主人公はただ待つ女であり、矛盾を抱えているわけではないが、待つ女、そして落ちぶれて行く女という像が重なってくる。そのような女の儚さというものもこの駒子は体現しているのだ。
  単純という意味では陽子も同じである。陽子は行男に対する気持ちと駒子の存在によって苦悩を抱えて入るが、彼女は子供なのだ。彼女は駒子に憎しみに様な思いを抱いていながら彼女に頼らずにはいられない。何が起こってもまず駒子に言いに行ってしまう。それは実はこのふたりの微妙な関係を表してもいるのだが、それは同時に陽子の向いている先が駒子しかいないということも意味している。陽子は駒子との関係においてしか自分を捉えることが出来ないのだ。
  そのような単純な周囲の人々によって浮き彫りにされる駒子の複雑さ。そしてそれは観客自身が自分自身の複雑さと結びつけるものであるのだ。2時間前後という短い時間で表現される映画の世界では基本的に人物像はきわめて単純化され、わかりやすく提示される。だから観客はそのような単純化された人物を見ることを期待しているし、そのような単純な人物も観客それぞれの一面を体現してもいるから、自己を投影してみることが出来るのだ。しかしこの駒子という人物は観客それぞれの自分自身を全的にあらわしてしまっている。それぞれの人間の心底にある矛盾と複雑さに観客は突き当たってしまうのだ。
  そしてその矛盾は解決しない。人間はそのような矛盾を抱えたまま生きていかなければならないのである。

 そのようにして終わるこの映画はやはり豊田四郎らしい映画というべきだろう。物語を単純化し、娯楽化して観客に展示するのではなく複雑なものを複雑なまま見せて観客に考えさせる。それが彼の映画なのである。
  この作品ではそのような深みが見事に表現されている。そしてそれはこの映画の風景にも助けられているのだろう。真冬の越後湯沢でロケ撮影を敢行したらしいが、電灯がほとんど埋まってしまうくらいに雪が積もった町並みに、雪のトンネルのような道ができ、その雪壁の高さによって季節の移り変わりを表現してみせる。雪深い北国の風景は人間をなぜか思慮深い人間にしてしまうような気がする。
  「雪国」に身をおき、駒子という人物を見せられた観客はいったい何を考えるだろうか。女の儚さだろうか、男の身勝手さだろうか、雪国の生活の厳しさだろうか。それとも、自分自身が生きるということのつらさだろうか。観客が何を考えるかは問題ではない。豊田四郎はただ観客が楽しむ映画ではなく、観客が考える映画を、鑑賞する映画を作りたいだけなのだから。

Database参照
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国別・年順: 日本50年代以前

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