宗方姉妹
2003/10/16
1950年,日本,112分
- 監督
- 小津安二郎
- 原作
- 大仏次郎
- 脚本
- 野田高梧
- 小津安二郎
- 撮影
- 小原譲治
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 田中絹代
- 高峰秀子
- 山村聡
- 笠智衆
- 上原謙
- 高杉早苗
- 千石規子
京都に住まう父親の癌がひどく進行し、余命が一年に満たないことを告げられた節子は、そのことを父自身と妹の満里子には黙っていることにした。奔放な満里子は父の元を尋ねてきた旧知の田代を訪ねて神戸に遊びに行き、そしてそこで節子と田代の昔の関係を話のネタにしたりする。
東京に戻った節子はやりくりの厳しいバーと仕事もせずに節子に冷たい態度を取る夫の亮介に心を病みながらも、何とか頑張ろうとしていた…
戦後ほぼ年に1作のペースで映画を撮るようになった小津の戦後第4作。高峰秀子は小津作品にはこの作品と『東京の合唱』の2作しか出演していないが、高峰秀子がとてもよい。
誰が出たって小津映画は小津映画、である。それは小津の個性の強さ、出演者を圧倒してしまう「濃さ」が小津の演出にはあるということだ。小津映画というとなんとなく静謐とか淡白という印象を与えがちだが、そのような印象を与える影には、強烈な個性と「変」とも言えるほどの濃い演出があるということは、いくら強調しても強調しすぎることはないことであるだろう。
そんな小津世界にはまる役者といえば、笠智衆、原節子を筆頭に、この映画でも主役級の田中絹代や常連中の常連の杉村春子などが上げられる。彼らが個性的ではないということではないが、彼らは小津の強烈な個性に捉えられ、小津世界の全き住人になってしまいそこからはみ出て来ようとはしない。
これに対してこの映画の高峰秀子はいわば球体の小津世界からはみ出ようとしてその球体をいがませる。小津世界の表面にでこぼこを作り、その球体の軌道すら変えようとしているように見える。高峰秀子の個性はそれだけ強烈だ。子役から映画に出演し(小津の『東京の合唱』には7歳のときに出演)、10代のうちから東宝の看板女優となってしまった彼女はこの頃既に巨匠となっていた小津に対しても物怖じすることなく自分の個性を貫き通すことができたということなのか。一挙手一投足まで完璧に演出したという小津安二郎の映画の中でこの映画が異彩を放つのは、高峰秀子のアドリブくさい演技の性だ。
口を尖らせて活弁士のように話す高峰秀子の演技は彼女の個性が強烈に放たれる場だ。これが小津の球体からはみ出ようとする彼女のアドリブならば高峰秀子とはものすごい女優であると思う。他方で、それもまた小津の綿密な演出なのだとしたら、それは小津の更なるものすごさを思い知らされることである。どちらにしても強烈な個性のぶつかりあいから生まれた非情な面白みがそこにはある。なぜ高峰秀子がこれ以降小津作品に出演していないのかはわからないが、私にはそのことが残念でならない。
物語展開のほうも小津作品には珍しいサスペンスフルな展開であり、そこで生きてくるのが山村聡である。とはいっても、原作があるものをあくまでも小津的世界の中にかっちりとはめ込み、小津的世界の範囲内でのサスペンスというレベルを超えることはない。それでも山村聡は独特の雰囲気を醸し出し、作品にいいアクセントを加えている。
そのあたりも含めて、小津が自らセルフイメージの外へ踏み出そうとしたのか、役者の個性がそうさせたのかはわからないが、いわゆる「小津世界」からは少々ずれた印象のある作品になっている。だからこそ面白くもあり、翻っていわゆる「小津映画」の面白みも見えてくるような作品でもあると思う。