新・鞍馬天狗
2003/10/23
1965年,日本,77分
- 監督
- 安田公義
- 原作
- 大佛次郎
- 脚本
- 相楽準三
- 浅井昭三郎
- 撮影
- 森田富士郎
- 音楽
- 斎藤一郎
- 出演
- 市川雷蔵
- 中村玉緒
- 藤巻潤
- 中村竹弥
幕末、京都では新撰組が討幕派の浪人たちを一掃すべく動いていた。その新撰組が狙った長州藩の浪人を救った黒頭巾の男、それは鞍馬天狗と呼ばれる謎の剣士だった。このめっぽう強い剣士の正体は困った子供に金をあげるような優しげな浪人者の倉田だった…
嵐勘十郎主演のシリーズで有名な大仏次郎の「鞍馬天狗」を市川雷蔵主演で新たにシリーズ化。話が面白いので何度も映画化されるのも納得。
新撰組というと、なんとなくかっこいいヒーロー的なイメージがあるけれど、この映画をはじめとする『鞍馬天狗』に登場する新撰組は基本的に敵役で決して格好いいものではない。むしろとにかく斬られる斬られ役、そして男前のはずの沖田総司もいやな奴となる。
基本的に新撰組とは、幕末の混乱期の一方の側の下っ端集団であるわけで、浪人あるいは武士の次男なり三男なりが汚い仕事をして何とか食い扶持を稼いでいた。そんな人たちであるわけです。しかもそれは権力側であり、役人側であるわけで決して強者に歯向かうヒーローではない。そんな人たちがヒーローとして映ったのは何かきっかけがあったのだろうけれど、見方を変えればそれも変わってくるということ。
誰がヒーローなのかというのは、その描き方に完全によってくる。新撰組を中心にして、観客が新撰組に感情移入するように描けば新撰組がヒーローになるだろうし、反対側(ここでは鞍馬天狗)に観客が感情移入するように描けば新撰組は敵役になる。
そして、ヒーローとは孤高の存在であり、敵役とは有象無象である。そして敵役は黒幕もまた腹黒い悪者として描かれる。この映画はまさにその図式に当てはまるもので、孤高のヒーロー鞍馬天狗は桂小五郎とも親しいほどのある意味では実力者でありながらひとり剣を振るう無敵のヒーローなのである。それに対して新撰組は腹黒い権力者たちの手下でしかなく、有象無象の雑魚達である。
しかしそれは、倒幕側に鞍馬天狗というヒーローを作り出すことによって可能になっただけのことで、実のところ倒幕側にも新撰組のような有象無象の実働部隊がいたわけで、彼らは新撰組と同じように汚い仕事もしただろう。だから、新撰組を中心に描いたならば、そんな彼らは有象無象の雑魚達となり、桂小五郎などは腹黒い裏切り者となったに違いない。
この映画は、そんなヒーロー作りの構図を審らかにする。誰をヒーローにするかというのはあくまでも恣意的なもので、歴史にヒーローなどおらず、それぞれの視点で作り出されたヒーローにその都度感情を寄せて、その活躍を楽しめば、それで痛快時代劇は面白くなる。それだけのことを言っているのだと思う。