シビラの悪戯
2003/11/3
27 Missing Kisses
2000年,グルジア=ドイツ,96分
- 監督
- ナナ・ジョルジャーゼ
- 脚本
- イラクリ・クヴィリカーゼ
- 撮影
- フェドン・パパマイケル
- 音楽
- ゴラン・ブレイゴヴィク
- 出演
- ニノ・クヒアニチェ
- シルヴァ・イアシュヴィリ
- ニフゲーニ・シディチン
- アマリヤ・モルドヴィノワ
グルジアの田舎町、叔母の家に遊びに着た14歳の少女シビラ、そのシビラを出迎えた少年ミッキーはシビラに一目惚れ、その夜、シビラの入浴する姿をのぞき見て、それを拒否しようとしないシビラにさらに想いは募っていった。しかし、シビラのほうはミッキーよりも父親のアレクサンドルのほうに興味があるようで…
旧ソ連時代から活躍してきたグルジア出身の女性監督ナナ・ジョルジャーゼの監督作品。いわゆるアート系の映画で目新しさはないが、しっかりと作られていて好感が持てる。シビラを演じるニノ・クヒアニチェもよい。
最初のモノローグはミッキーのセリフである。つまりこれはミッキーの物語ということになる。そして原題もミッキーの視点からつけられている。しかし邦題は『シビラの悪戯』となり、映画としては確かにシビラが中心になってミッキーの手からは離れてしまう。そのあたりをどう捉えるのか、ということがこの映画がぴたりと来るかイマイチと感じるかの分かれ目だと思う。
つまり、この映画は語られる物語であるのか、見つめられる物語であるのかがはっきりしないわけだ。時にはミッキーの主観から語られ、時にはシビラの主観から語られ、時にはまったく第三者の視点から見つめられる。このような展開は見る側の注意力を散漫にし、物語に没頭することを妨げる。それはつまりこの映画が何かの物語を物語る映画ではなく、物語ではない何かを物語ろうとする映画だということになるのだろう(そうでなければ完全な失敗作だ)。
その物語ろうとされている何かとは何か? と考えてみると、全体的にはミッキーの物語である。父と子と2人だけで育ち、思春期を迎えた少年が“初恋”の相手に出会う。この年頃には同い年ならば女の子の方がオトナである。そんな少年の心の揺れこそがこの映画が物語ろうとしたことなのだろう。そのことはうまく描かれているし、具体的にも十分に伝わってくる。しかし、本当にそれだけで、映画としてみるとかなり地味だし、少し貧しい印象を受ける。
そもそも私にはミッキーがそれほどシビラにぞっこんだと言う風には見えなかった。思春期の少年が同年代の少女に描く当たり前の恋心、その程度の恋心を抱いているようにしか見えなかった。だから物語が盛り上がっていく過程にイマイチ乗っていけず、結末もなんだかこじつけというか、物語にまとまりをつけるための強引な結末という気がしてしまっていまひとつ。
その原因を考えてみると、シビラの魅力というか少年が夢中になる理由のひとつに少女の開けっぴろげなところ、つまり裸を平気でさらしたりするようなところを利用しているところに無理があったのではないかと思う。彼女がそのように奔放であることは思春期の少年にとって魅力になりうるのか? そして、そのような彼女の行動が映画の中で大きなウェイトを占めることによって散漫な印象を与えてしまうのではないか? そんな疑問が頭をもたげる。そしてその疑問には何の整理も付かないまま映画は終わってしまい、私にはどこか中途半端な映画に感じられてしまった。テーマの掘り下げ方も今ひとつ、物語も今ひとつ、という印象が否めない。