北京バイオリン
2003/11/7
和?在一起
2002年,中国,117分
- 監督
- チェン・カイコー
- 脚本
- チェン・カイコー
- シュエ・シャオルー
- 撮影
- キム・ヒョング
- 音楽
- チャオ・リン
- 出演
- タン・ユン
- リウ・ペイチー
- チェン・ホン
- ワン・チーウェン
- チェン・カイコー
中国の田舎でコックをして暮らすリウの息子チュンはバイオリンの天才で、リウはそれが自慢で息子が人生のすべてだった。そんな息子が北京のコンクールに参加することになり、父子は全財産を持って北京へと向う。コンクールで5位に入賞したチュンを北京の学校に入れようとリウは奔走するが、後ろ盾のないチュンはなかなか受け入れてもらえない…
チェン・カイコーが天才バイオリニストのタン・ユンを主演に迎えて撮る父子のドラマ。得意の大河ドラマではない小さなドラマで、伝統的な中国のイメージと新しい中国のイメージをうまい具合に融合させた佳作。
この映画の眼目はリリである。チュンが駅で出会っただけの女性。そして偶然に近所に住むことになる女性。そのリリがいることでこの映画はようやく映画として成立しているといってもいい。つまりこれは父子の話のように見えて、実は少年(天才少年)の初恋の話なのだ。どんな天才少年でも、それがバイオリンといういかにも利口そうなものでも、恋には落ちるし思春期にはいやらしいことも考える(いやらしいことを考えるほうは映画には出てきませんが…)。一見、天才少年と父親の感動物語のようだが、本当のところは実に甘酸っぱい物語であるのだと思う。
この映画、やけに善人ばかりが出てくる。田舎から出てきたどっから見ても田舎ものの親子だから、都会人にだまされるのが関の山と普通は思うのだが、そんな悪人は出てこない。リリも先生たちも善人である。そのようにまったく善人ばかりが出てくると、逆に勘ぐりたくなるのが人情というものだ。そして、この映画はそんな勘繰りを許すような映画になっているのだと思う。
きっちりと構成すればそんな勘繰りを許さない「人の温かさに触れる」というようなもので全編が覆われた感動物語にすることも可能だったろう。しかし、それではつまらない。たとえばリリの彼氏(ちょっと哀川翔に似ている)のような得体の知れないキャラクターを混入させる。感動物語のスパイスとみなして、見過ごしてしまえば見過ごせるモノだが、勘ぐってみるとそこには善人のようでありながら単純ではない人間性の深みのようなものが見えてくる。うわべは善人ぶっているリリの彼氏がじっさいはどんな人間であるのか、そして逆に、突っ張っているように見えるリリがじっさいはどんな人間であるのか。それを考えてみると、ここで善人のように見えている人たちも単純に善人というわけではない、ということが見えてくる。
これは当たり前のことではあるけれど、映画は、観客にそのようなことを考える暇を与えず、善人は善人というかっちりとしたキャラクターを創り上げることでそんな当たり前のことを覆すことも出来るのだ。そんな通り一遍等のキャラクターによって演じられる感動物語も数多くあり、それはそれで感動してしまうわけだが、この映画はそんな通り一遍等の映画であることは拒否する。あるいは観客にそんな映画の見方を促す。
そしてそのように見ることで初めてこの映画は面白みが出てくる。そして、そのように見るということはリリに注目するということなのだ。父子の物語というよりは一人の少年の物語。その関係性の網の中に父もいるし、リリもいる。先生もいる。
<ネタばれますよ!>
リリが「血は水よりも濃い」という発言をし、実はその「血」が最終的には裏切られる(少年と父の関係が少年とリリの関係と平等になる)ことを考えると、さらにこの物語は深みが増す。それでも少年は父を父として選び、物語は完結する。「血は水よりも濃い」という(敢えて言えば)たわごとを金科玉条として父子の当たり前の感動物語を描くよりも、このように根本的な人間の関係のあり方をえぐっていったほうが映画としては面白い。この映画はそのような面白さを(見方によっては)実現できる映画であると思う。