テープ
2003/12/7
Tape
2001年,アメリカ,87分
- 監督
- リチャード・リンクレイター
- 原作
- スティーヴン・ベルバー
- 脚本
- スティーヴン・ベルバー
- 撮影
- マリス・アルベルチ
- 出演
- イーサン・ホーク
- ロバート・ショーン・レナード
- ユマ・サーマン
とある安モーテル。なぜか缶ビールを飲みながらもう一缶を洗面台に流している男。そこに客がやってくる。二人の会話からは二人は高校時代からの旧友で、訪ねてきたほうの男ジョンが当地で開かれた映画祭に出品した映画を部屋の男ヴィンセントが観に来たということらしい。二人も最初は他愛もない話をしていたが、ヴィンセントがヤクを取り出し、吸ったあたりから話の矛先は昔のとある事件へと向けられていく。
スティーヴン・ベルバーによる舞台劇の映画化。監督は『ニュートン・ボーイズ』などのリチャード・リンクレイター。イーサン・ホーク、ユマ・サーマン夫妻が共演している。
映画はいきなり画素の粗いデジタルビデオの画面で始まる。最初の印象ではこれは導入に過ぎず、そのうちフィルムに切り替わるのだろうと思わせるが、結局フィルムに切り替わることなく、終始デジタルビデオの映像が続く。画面の粗さには徐々に慣れて行き、気にならなくなっては来るけれど、カメラを振ったり移動させたりする際の不安定感が時折気に障る。原作が舞台ということなので、おそらく役者の演技をまず決めて、そこにカメラを置き、カメラにある程度の動きの自由さを与えて面白みのある映像を作ろうという意図があったのではないかと推測できる。その点には成功しているのと思えるから、画面の美しさをある程度犠牲にしても仕方なかったのではないかとも思う。
さて、映像はいいとして、内容のほうだが、ホテルの一室という限られた空間、3人という限られた登場人物、こういった極端な制約がある映画が私は好きだ。どんどん自由度を狭めていくことで映画はどんどん純粋に映画的になっていくと思う。映画にとって重要な様々な要素が散逸してしまうことなく、集中する。敢えて制約を加えることによってそのような効果が生まれる。
この映画によって浮き彫りにされているのは“演技”という要素ではないだろうか。まず、3人の出演者たちは俳優として演じている。基本的にドキュメンタリータッチのこの作品ではとにかく自然でなければならないし、しかもホテルの一室という限られて空間であるがゆえに、演技の失敗やつたなさをごまかしてくれる風景や小道具が存在しない。そこでは役者は間然に登場人物になりきり、観客に登場人物の背後にいる役者の存在を感じさせてはいけないはずだ。そのような点で、この映画は役者の演技の出来に映画の出来が大きく左右される映画であるといえる。そして、彼ら3人の演技はかなりうまい。ヤクの売人や検事補という肩書きとはキャラクターが今ひとつ一致していないと言うことはあるが、無理なく映画に没入することはできる。むしろ問題なのは、3人目の出演者としてユマ・サーマンを出演させてしまったキャスティングにあるのではないかという気がする。ハリウッドのゴシップに少々詳しい人ならば、彼らが夫婦であることを知っていて、その私生活が映画の裏に透けて見えてきてしまい、せっかくの演技が薄れてしまいかねないのだ。
そのような俳優としての演技に加えて、この映画自体が「演技」をテーマにした映画であるといえると思う。まず映画の序盤からヴィンセントの話し振りは思わせぶりである。何かを言いたそうだが言わない。それは確実に一つの演技である。相手(ジョン)を自分が演出する舞台に引き込み、自分が望むような反応をジョンにさせる。そのための演技をヴィンセントはしているのである。冒頭のビールを洗面台に流すという一軒無意味な行為も、空き缶の数によってジョンを幻惑し、自らの演技をもっともらしく見せる下準備であったのかもしれないとも思う。ヴィンセントはそのように自ら演出した演技によってジョンに対峙する。
対するジョンは他人に対してもそうだが自分に対しても演技をしている。インテリの新進気鋭の映画監督、肩書きは確かにそうなのだが、それはあくまで彼が自分自身に押し付けた肩書きに過ぎない。彼はその肩書きに見合う人間であろうと演技し、自分までをもだまそうとしている。そのような演技をヴィンセントははがそうとするのだ。
3人目のエイミーはいわば突然舞台に投げ込まれた女優である。アドリブでその場をしのぐことを求められた女優であり、その中で自分の立場を有利なものにしていくために演技をする。そこにはすでに舞台装置が用意されており、彼女の行動は第一義的に舞台装置に規定されるために最後まで本心は明らかにならない。そのようにしてしか彼女はあらかじめ舞台に立っていた2人に勝つことは出来ないのだ。
この映画はそんな3人の男女の演技(つまり嘘/騙し合い)を描いた映画である。映画の様々な要素を切り落とし、“演技”というものに焦点を当てた物語。演技とは自分と違う人格を舞台やスクリーンで演じることだけをさすのではなく、日常でわれわれが他人をコントロールするため、あるいは自分に一定の人格を与えるため、あるいは他人に対して遊離に立つために行うような演技すべてをさすのである。役者が演じるということがわれわれが日常で演じていることの延長であると考えるとき、映画もまたある意味では日常の延長なのではないかという考えが頭をかすめる。